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石狩川口灯台

2015.11.03 公開
2020.03.19 更新

石狩の灯台といえば,映画『喜びも悲しみも幾歳月』の舞台ともなった紅白縞模様の石狩灯台しか知られていないかもしれない。
実際2015(平成27)年現在,合併前の旧石狩市域内では石狩湾新港の防波堤,防砂堤の先に設置された航路標識以外に灯台といえる存在は,はまなすの丘に立つ紅白・石狩灯台のみである。

しかし,1916(大正5)年から1999(平成11)年まで石狩川河口右岸にもうひとつの灯台が立っていたのだ。
灯台の名は「石狩川口灯台」という。
場所は,石狩川右岸河口近くに合流する現在の知津狩川河口と聚富川河口の中間あたりの石狩川川岸。
旧石狩市域内か旧厚田村域内か,かなり微妙な位置ではある(最終的には旧厚田村新開地)。

とかなんとか,ムカシから知っていたかのような書き方をしている私も,かつての川口灯台の存在を知ったのはたかだか2年ほど前である。
にわかにはさほどの興味もわかずにいたが,今年(2015年)2月,石狩市郷土研究会顧問の田中實氏から衝撃の写真を見せていただく。
以降,川口灯台跡地をたずねて彷徨い歩く日々が続くことになった。
同時に,第一管区海上保安本部交通部に幾度となく電話,メールで問い合わせ,かなりの実相に迫ることができた。

1999年といえばたかだか16年前。考えようによっては”ついこの間”のことである。
にもかかわらずいまや忘れ去られようとしている石狩川口灯台の,かつてあった雄姿を記憶にとどめたい。

なお,田中實氏,ならびに第一管区海上保安本部には深くお礼を申し上げる。

目次

石狩川口灯台の経歴
衝撃の写真
灯台跡地をたずねてさまよう
全容判明 正確な位置と主要なデータ
苦難の歴史 たびかさなる倒壊と移設
地形図で確かめる
空撮画像の中に痕跡を見る
もうひとつの導灯 石狩湾港管理組合導灯
その後の石狩川口灯台 浜益漁港で着氷実験中 (new)


■■■ 1.石狩川口灯台の経歴 ■■■

順序が逆になるが,まずは石狩川口灯台の簡単な経歴から紹介する。
さらに設置時の状況などを,『官報 第千五十九號』と『北海道樺太南部沿岸水路誌 第1巻』から記述を引用させていただく。

1916 大正05 4.13 北海道庁所管「石狩川口導灯」として初点。前灯と後灯とからなる
1925 大正14 7.01 光源を電灯に改良
1949 昭和24 5.09 北海道庁から海上保安庁に移管
1951 昭和26 7.28 鉄造に改築
1973 昭和48 11.20 後灯を廃止。前灯のみで「石狩川口灯台」とする
1995 平成07 12.01 FRP(プラスチック)造に改築。光源をナトリウム灯に改良
1999 平成11 4.12 灯塔倒壊
12.10 廃止

官報 第千五十九號 大正五年二月十五日 火曜日
遞信省告示第百十號
北海道廰ニ於テ石狩國石狩河口航路ヲ示ス爲其ノ東岸ニ左記ノ導燈ヲ建設シ來四月一日以後毎夜點火ノ旨同廰ヨリ報告アリタリ
大正五年二月十五日 遞信大臣 箕浦勝人
石狩河口前燈
位    置北緯四十三度十五分五十五秒、東經百四十一度二十二分四秒
構造及著色 木造燈竿紅白交互塗装頂上ニ三角形目標ヲ戴ク
自基礎至燈火 高 二丈四尺七寸
自水面至燈火 高 三丈
等級及燈質 無等不動白色
明    弧 全度
光達距離 晴天ノ夜三浬
石狩河口後燈
位    置 北緯四十三度十五分四十八秒、東經百四十一度二十二分十四秒
構造及著色 木造燈竿紅白交互塗装頂上ニ三角形目標ヲ戴ク
自基礎至燈火 高 二丈四尺七寸
自水面至燈火 高 三丈二尺五寸
等級及燈質 無等不動紅色
明    弧 全度
光達距離 晴天ノ夜二浬
記    事 本河口ニ入ラントスル船舶ハ前燈ト後燈トヲ一直線ニ望ミ河口中央ニ至リ右折シテ進航スヘシ兩燈間ノ距離百六十七間半
點燈期間ハ毎年四月一日ヨリ同年十一月三十日迄トス
但シ導燈位置ハ河口澪筋の變更ニ伴ヒ又點燈期間ハ結氷若クハ流氷等ノ狀況ニ依リ孰モ隨時變更スルコトアルヘシ

北海道樺太南部沿岸水路誌 第1巻   昭和3年10月刊   水路部
石狩川口導燈

 前燈ハ河口東側ニ在リ,不動紅光燈ニシテ光達距離4浬・明弧全度,塔高,礎上9.9米,平均水面上11.8米・構造,三角形頭標附紅白横線塗木造竿。
 後燈は河口東側ニ在リ,不動白光燈ニシテ光達距離7浬・明弧全度,塔高,礎上9.9米,平均水面上12.4米・構造,三角形頭標附紅白横線塗木造竿。
 2灯相距ル 1.7鏈,導灯ノ位置ハ川口澪筋ノ變化ニ伴フ・毎年4月1日至11月30日間點火ス,但シ期間ハ結氷若ハ流氷等ノ状況ニ依リ,随時變更スルコトアルベシ・廰立。
 石狩川口ニ入ラントスル船舶は,前後両燈ヲ一線ニ望ミ,河口中央ニ到リ,右折シテ進航スベシ。

<<<注>>>
官報では前灯:白色,後灯:紅色
水路誌では前灯:紅光,後灯:白光
と逆になっているが,水路誌の記載が正しい。
後の官報(大正12年)で訂正されている。
高さ,光達距離については移設/改築,あるいは光源の変更などがあったため異なる値になっているものと思われる。

1浬(海里)=1852m
1鏈(れん)=10分の1海里=185.2m
1丈(じょう)=10尺=3.03m


■■■ 2.衝撃の写真 ■■■

石狩川口灯台は1999(平成11)年4月12日,融雪で増水した知津狩川の激流により基礎を浸食されて倒壊した(北海道新聞1999.04.14夕刊)。
左の写真は後日,第一管区海上保安本部から提供された灯塔倒壊直後の写真である。
灯塔は傾いて半分以上水没
基礎部分の浸食を防ぐために設置されていた鋼矢板も激流の前には用をなしていない。
(説明付きの写真)

先に倒壊した直後の姿を表示したが,この写真は2015年9月に第一管区海上保安本部から提供を受けたものである。

ここでいう「衝撃の写真」とは,それより先の2月に,田中實氏に見せていただいた,初めて接するふた組の川口灯台の写真のことである。
ひと組は,倒壊する前日1999年4月11日,激流に襲われて,いままさに倒壊寸前の様子。
もうひと組は,倒壊して数日後の1999年4月16日,再び確認に訪れたときの様子。
1999.04.11

浸食防止のための鋼矢板が激流に飲み込まれている。
これが外されたら灯塔本体はひとたまりもないだろう。
知津狩川に比べて石狩川は静かそうだ。
1999.04.16

灯塔本体は見られない。
海上保安本部により処理されたのか
あるいは完全に水没してしまったのか定かではない。
鋼矢板は傾いて倒れている。

見てわかるように4/11と上記倒壊直後あるいは4/16とでは知津狩川の川面の状況はまったく異なる。
4/11の写真でも,知津狩川の向こうに見える石狩川の流れは穏やかそうに見える。
この日の知津狩川の融雪増水流がいかに激しかったかが見て取れる。

写真を提供して頂いた田中實氏といえば,知る人ぞ知る”石狩の生き字引”。
いまでは相当なご高齢。16年前でもなお,現在の私よりいくつか年上である。
増水した川には危険なので近寄らないように,とはよくいわれる。
氏は恐る恐る堤防上を這うようにして近づいて撮った写真なのだという。
私もさまざまな取材で立入禁止を無視したり,高所恐怖症のくせにアブナイ箇所に踏み込んだりして女房によく叱られている。
が,思うに当時の氏は,私以上のヤンチャもので奥様をてこずらせていたであろうことは想像に難くない。
だからこそ,このような貴重な写真が今に残っているのである。


■■■ 3.灯台跡地をたずねてさまよう ■■■

田中實氏の話から,石狩川口灯台は知津狩川河口(来札水制工)と聚富川河口(中村水制工)との間にあったのであろうことが確信できた。
しかし,より正確な位置を知りたい。
そして,残っているかもしれない痕跡(遺構)を見つけたい。

そこに近づく石狩市道は冬期間除雪対象外で通行止め。
国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスなどからさまざまな空中写真を入手し,目を皿のようにして灯台風な建物を探すがほとんど徒労に終わる。
現地を歩いてみるしかないだろう。

今や遅しと雪解けを待ち,4月1日探索の第一歩をしるす。

[A]

[B]

[C]

[D]

[E]

[F]

[A] がその日のルートである。(水制遺構については石狩川河口右岸の遺構群参照)
行ったり来たりさまよった挙句,結局灯台があったことを示す痕跡はまったく見つからなかった。
そのかわり,歩いたいろいろなポイントで写真をとりまくった。
それらの写真を使って,灯台跡地に迫ることができないだろうか?

[B] 1999.04.11の写真には,遠景として小さいながら対岸の「石狩灯台」と「ヴィジターセンター」と「あいはら」(鮭料理の店で,現在2階が「マウニの丘」)が写っている。
これらの位置関係を利用することにする。

[C] は比較利用できそうな対岸の写真を撮ったこの日の各ポインで,A~Hの8ヶ所を示す。

[D] 左上が1999.04.11の写真で,4/1探索時のA~H 8ヶ所からの写真を同一画面に並べたもの。
(1999年の写真にはなくて,2015年の写真では存在感をそれなりに示しているのがLNGタンクである)
見比べて,1999年の写真での石狩灯台,ヴィジターセンター,あいはらの位置関係に近いのはC~Dと考えてよさそうだ。

[E] 1999年の写真はここで示すような直線の角度で撮られたものに違いない。

[F] [E]を拡大。
堤防上のこの直線と交わる辺りから写したものだとすると,この図で示す位置辺り(赤線楕円)に灯台は建っていたのだろうと推測できる。
おおまかなりに範囲をある程度絞り込めたので,それ以後数回探索におもむいたがついに得られるものはなかった。
第一管区海上保安本部では,川口灯台倒壊,そして廃止となって,相当入念に原状復帰に努めたのであろうことがうかがえる。

その後,第一管区海上保安本部とのやり取りの中で,石狩河口灯台の正確な位置(経緯度)を含めてその概要が明らかになった。


■■■ 4.全容判明 ■■■

海上保安庁とはお堅い役所,とばかり勝手に身構えちゃってなかなか尋ねにくい雰囲気を自分から醸し出してしまっていた。
そうではあるまい・・・ということがよくわかった。

第一管区海上保安本部に石狩川口灯台についてさまざま問い合わせた結果,実に親切に詳しく教えてくれたのだった。

● 正確な位置 ●

前節でいろいろなポイントから撮った写真を見比べて位置を推測した原始的な作業をあざ笑うかのように,教えられた経緯度により一発で灯台のあった位置を特定できたのだった。
測量の基準が日本測地系から世界測地系に改正されて施行されたのは2002(平成14)年。
石狩川口灯台が廃止になったのは1999年だから,川口灯台の経緯度は日本測地系によるもの。
しかしその値は国土地理院のWeb版TKY2JGDページでなんなく世界測地系に換算できる。
そして判明した,石狩川口灯台が最後に位置していた経緯度は・・・
北緯 43°16′03.40″
東経 141°22′26.75″
上記経緯度の位置を前節 [F] 図に挿入したのが右図である。
なんとも,この辺りだろうと推測した楕円内にギリギリおさまる位置だった。
もともと推測した楕円がかなりいい加減だったのだから仕方がない。

● 主要なデータ ●

大正5年~ 前灯,後灯時代 昭和48年~ 後灯を廃し前灯のみ 平成7年~ 改築,変更後
石狩川口導灯 石狩川口灯台 石狩川口灯台
構造塗色 木造 灯竿 紅白交互塗(*)
頂上に三角形目標を戴く
鉄造 四角やぐら形 白色塗 FRP(プラスチック)造 塔形 白色塗
高さ 基礎~灯火 前灯:2丈4尺7寸 基礎~構造物頂部 8.0m 基礎~構造物頂部 5.6m
後灯:2丈4尺7寸 基礎~灯火 7.6m 基礎~灯火 5.26m
水面~灯火 前灯:3丈 平均水面~灯火 15m 平均水面~灯火 7.7m
後灯:3丈2尺5寸
灯質 前灯:不動紅色 ; 後灯:不動白色 不動白色 等明暗白光 明 3秒,暗 3秒
明弧 全度 全度 全度
光度 1200カンデラ 480カンデラ
光達距離 晴天の夜に 3(前灯),2(後灯)海里 12.5海里 10.0海里
(*) 石狩灯台よりはるか前に紅白縞模様だったのに気づかされる!!!
姿図 姿図は得られなかった。
「灯竿」というのは木/鉄/コンクリート造の竿(あるいは柱)状のもので,頂部に発光器具(ランプなど)を持つ。

ここではおそらく,木造電柱状の竿の頂部に三角形の頭標をつけたようなイメージの構造だったものと思われる。
写真
昭和62年12月

倒壊前


■■■ 5.苦難の歴史 ■■■

石狩川河口の形状が絶えず変化し,それに伴って船舶が安全に航行できる澪筋も変わる。
座礁などの危険を回避すべく設置されたのが石狩川口導灯(灯台)だったが,その場所は石狩川河口近くの右岸。
地形図(大正7年発行)によると,そのころ聚富川は石狩湾に河口を持つ独立河川だった。
現在中村水制工が設置されている石狩川への合流点(聚富川河口)あたりで見ると,当時は石狩川と聚富川とは300~400m離れていた。
大正5年の最初の川口導灯は,この石狩川右岸と聚富川左岸に挟まれた土地に設置された(今ではその位置は,石狩川の川底か,もしかしたら左岸の砂嘴すれすれかもしれない)。
昭和20年代,右岸の浸食/後退と左岸砂嘴の伸長がほぼ止まるまで(石狩川河口右岸の遺構群参照),川口導灯の立つ位置そのものが削られて倒壊/移設を余儀なくされ続けてきた。
その過程を判明する限りで官報などから拾ってみた。

1916 大正05 設置
1918 大正07 移設 前/後灯とも位置/高さ 変更
1920 大正09 移設 前灯位置 変更 (澪筋移動のため)
1922 大正11 水害で前灯倒壊 前/後灯とも位置 変更
1924 大正13 暴風で前灯倒壊
1925 大正14 移設 前/後灯とも位置/燭光数/光達距離 変更
1930 昭和05 移設 移築工事施工
1931 昭和06 移設 前/後灯とも位置 変更
1932 昭和07 移設 前灯位置 変更
1933 昭和08 移設 前灯位置 変更
・・・
1949 昭和24 移設 前/後灯 復旧
1952 昭和27 移設 前/後灯 改設
1973 昭和48 移設 後灯 廃止 / 前灯 名称変更
1977 昭和52 倒壊/移設 石狩川増水のため      北海道新聞1977.04.05夕刊
1999 平成11 倒壊/廃止 知津狩川増水のため   北海道新聞1999.04.14夕刊

石狩川左岸河口砂嘴は,明治の始め以来昭和20年ころまで平均して1年に20~25m伸び続け,同時に河口右岸は浸食され後退し続けた。
変化する澪筋に対応するために設置された川口導灯であるから,導灯の位置もそれに伴って頻繁に移設せざるを得ないことは始めから織り込み済みだったものと思われる。
前掲『官報 第千五十九號』の記事でも,
「但シ導燈位置ハ河口澪筋の變更ニ伴ヒ又點燈期間ハ結氷若クハ流氷等ノ狀況ニ依リ孰モ隨時變更スルコトアルヘシ」
とあることからもうなづける。
官報の記載を見ても,1,2年ごとに移設されているし,記載されていない移設もあったかもしれない。
それにしても,川の増水や暴風での倒壊までは想定外だったと思われるし,それも4回も記録されているわけで,苦難の歴史以外のなにものでもない。


■■■ 6.地形図で確かめる ■■■

大正から昭和30年代初めまでに発行された地形図には,固定標有灯の航路標識として石狩川口導灯が表示されている。
昭和30年代以降,地形図においては灯台以外の航路標識は記載されなくなったようだ。

石狩川口導灯が航路標識(前灯/後灯の対の形)として表示されている地形図は次の通りである。

(1) 石狩 1/50,000 大正05 測図 地形図(部分)
大正07.05.30 発行
(2) 石狩 1/50,000 大正05 測図 地形図(部分)
昭和10 修正測図
昭和12.04.30 発行
(3) 石狩 1/50,000 大正05 測図 地形図(部分)
昭和10 修正測図
昭和22.02.28 発行
(4) 石狩 1/50,000 大正05 測図 地形図(部分)
昭和10 修正測図
昭和26.07.30 発行
(5) 望来 1/25,000 昭和29 測量 地形図(部分)
昭和33.12.28 発行

1/50,000 図で気づくのは,(2),(3),(4)については発行日が異なっているにもかかわらず地形に関してはまったく変わらないということ。
当然ながら,石狩川河口付近の形状(左右両岸とも)は3枚すべて同じである。
いずれも大正5年測図,昭和10年修正測図されているのみで,それ以降新たに測り直されていないのだから仕方がない。
要するに地形図を発行日を基準にして眺めるのは大きな誤りということがいえる。

また(1),(2)については,大正5年測図は同じだが,(2)については昭和10年の修正測図が反映され河口付近の地形は明らかに異なる。
左岸砂嘴が伸びて先端形状が変わり,右岸は浸食されて後退している。
しかしよく見ると海岸線で変化しているのは河口近傍のみで,少し離れた海岸線は大正5年測図のまま変わらない。
大正5年から昭和10年までのおよそ20年間で,見た目にも地形の変化した部分(河口近傍など)のみ修正測図されたのだろう。
石狩川河口近傍以外では,生振捷水路が昭和6年に完成したことに伴う石狩川の流路変更を反映した修正が大きい。
そのほか,知津狩川河口近くの流路変更,あるいは主要な道路の切り替え,八の沢の石狩油田からの専用軌道,パイプラインなどの施設の追加などを確認できる。
いずれにしても修正測図は一部分に限定/反映されているに過ぎないということを踏まえておく必要がある。

石狩 1/50,000 図ではこれらの次に発行されたのは,昭和28年第2回修正測量,昭和32.01.30 発行の地形図(部分)であるが,これにはすでに石狩川口導灯(灯台)は見当たらない。
(参考までに,明治29年製版,明治42年部修測図,明治43.12.15 発行の地形図(部分)を付記する)
最後に,(1)(2)および(5)を Google earth 上に重ねあわせ(イメージオーバーレイ)て検討してみよう。
すなわち,大正5年の測図時点と,昭和10年の修正測図時点,さらに戦後の昭和29年測量時点における石狩川河口近傍の地形と川口導灯の位置を比較してみる。



<注>
・導灯位置は,地形図に示された航路標識の位置を表わす。
印象としてはさほど厳密な位置を反映するものとは考えられない。
導灯は前灯,後灯の2灯からなり,海岸線に近い方が前灯である。
・平成11年の最後の川口灯台位置は,4.全容判明で得られた経緯度をGoogle earth上に落したものである。
・聚富川の流路は地形図に示された流路で,大正5年測図と昭和10年修正測図とではほとんど変わらない。
この間にもかなりの流路変更があったものと思われるのだが。
右岸の浸食後退により石狩川と聚富川とは昭和20年頃に接することになったものと思われる。
かくして独立河川だった聚富川は,石狩川に河口を開く支流となる。
・知津狩川は全く新たな流路を人工的に掘削する河川改修により,昭和48年石狩川に河口を持つ支流となる。

大正5年の導灯位置は,前,後灯ともいまでは石狩川の底である。
昭和10年当時の前灯位置もほとんど川岸すれすれ。
ちょうどそのころから水制工事が着手されたので右岸の浸食の進み具合ははある程度抑えられてきたきもしれない。
しかし昭和20年ころまでは地形変化に伴う澪筋の変動に対応して移設を余儀なくされたものと思われる。

石狩川河口部は,河口よりやや内陸に入ると十分な水深と広さの泊地(船溜)を確保できる。
(河口から3kmの石狩河口水位観測所あたりで水深10m程度,4.4kmの石狩水位観測所あたりでは水深10数m,いずれも澪筋は左岸側)
その意味では天然の良港の条件を有している。
史実としても古くは1688(元禄元)年水戸光圀の命を受けた水戸藩の快風丸の来航が記録されているし,北前船(弁財船)も寄港している。
にもかかわらず,先に書いたように左岸の伸長,右岸の後退という地形(河道)変化に加えて,河口部とその沖合での水深の不安定が船舶の航行の妨げとなってきた。(こうしたことは多かれ少なかれ河口港共通の悩みであるようだ)
そのため水制工や導流堤の設置により河道の変動を抑制しつつ,澪筋が変化した場合には川口導灯を移設するなどして船舶の安全な航行を維持しようとしてきたわけである。
しかし沿岸漁業の衰微,道路網の整備による取扱貨物量の激減,石狩湾新港の建設など,環境の変化により石狩港の修築事業は昭和48年に終了。
その後も澪筋を照らし続けてきた石狩川口灯台も平成11年に倒壊。
石狩川に入ってくる船のための航行援助施設は消滅した。(石狩灯台はいまでは,石狩川に入ろうとする船の役には立たない)
なにかその残骸がひとつでも残っていないものか・・・これからもうろつくことになりそうだ。


■■■ 7.空撮画像の中に痕跡を見る ■■■

目標物が大きな建造物であって,かつ正確な位置がほぼ分かっていれば,そこそこの解像度の空中写真の中でそれを見つけるのはさほど難しいことではない。
しかし石狩川口灯台の場合,第一管区海上保安本部から詳しい位置情報を得られるまでは,さまざまな空中写真を集めてもその中で川口灯台を特定するのはかなり困難な作業だった。

しかし正確な位置が分かったいま,川口灯台の姿を痕跡を写真中に求めることは可能である。

まず最初に,海上保安庁空中写真閲覧サービス から得られた1992年(平成4年)撮影の空撮画像を使わせていただく。
FRPに改築したのは1995年(平成7年)だから,当時の灯塔はまだ鉄造白塗りのやぐら型だった。

方 位

主要メタデータ

134度  地  名  銭函-望来
 撮影年月日  1992年09月08日
 撮影時刻  10時30分30秒
 北緯(世界測地系)  43度16.8分
 東経(世界測地系)  141度22.4分
 撮影高度  3200m
使用した写真 199220146L.jpg (72dpi) のデータ [実際に重ねあわせに用いたのは高解像度画像(400dpi)]


[A]

[B]

[C]

[D]

[E]

[A] 使用した海保空撮画像 (199220146L.jpg)
[B] 重ねあわせ領域を高解像度画像からトリミングした画像
[C] 重ねあわせの背景となる Google earth 画像 (画像取得日 2014.10.07)
[D] [C][B]を重ねあわせた画像
Google画像と海保画像との間にほとんど歪みがなく理想的に近い形で重ねあわせられた。
[E] [D]の一部を Google earth 上でさらに拡大してみる
薄めに表示した大きな赤丸印の中心が正確な経緯度による川口灯台の位置を表わす。
赤丸の中心より心もち下にずれているようにも見えるが空撮画像に白い点が見える。(赤矢印参照)
これが当時の川口灯台であるとみてほぼ間違いないだろう。

この日の知津狩川河口(石狩川への合流点)は来札水制工近くに開いているが,図の下方へ河道跡が伸びている。
少し前までの知津狩川は,この日の河口は塞がっていて河道跡がさらに南下して石狩川に合流していたものと考えられる。
驚きなのは川口灯台と見られる白い点と河道跡との間隔がきわめて近い(ほんの数m)ということ。
この時点でもすでに危機一髪だった。
これより7年後再び迫ってきた知津狩川に浸食されて川口灯台は倒壊することになる。

空中写真中に川口灯台の痕跡を発見できて気をよくし,ほかの写真ではどうだろうかと試してみた。
国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスから,以下の写真を使わせていただいた。

1976 1983 1989 1993 1995 1999
整理番号 CHO761 HO832X HO894X CHO931X HO952Y CHO991X
コース番号 C13 C4 C4 C3 C2 C3
写真番号 3 3 2 3 6 2
撮影年月日 1976/08/26(S51) 1983/05/12(S58) 1989/06/13(H1) 1993/06/29(H5) 1995/07/18(H7) 1999/09/13(H11)
撮影高度 2495 3060 3300 3978 6000 4700
撮影縮尺 15000 20000 20000 25000 40000 30000


1976.08.26

1983.05.12

1989.06.13

1993.06.29

1995.07.18

1999.09.13

上段は,国土地理院の原画像から必要な部分をトリミングした上で Google earth に重ねあわせた段階の画像である。
下段は,それを拡大した画像で,前と同様,大きな赤丸印の中心が川口灯台の位置を表わす。
上下段それぞれに,画像の位置,縮尺は5枚すべて正確に揃えてある。

1976年は1977年に石狩川の増水で倒壊する以前の画像となる。
1977年倒壊後1999年倒壊時の最終位置に移設されたので,1976年時点での灯台位置は実は定かではない。
図に示した赤丸印は参考にはならず,当時の灯台の痕跡を見つけるのは難しい。

1983年の画像では,赤矢印の先の白い点が川口灯台に違いない。

1989年の画像では,赤矢印の先の黒く太い線は基礎部分の浸食を防ぐために設置された鋼矢板と思われる。
昭和62年12月の写真にも見られる。

1993年の画像では,赤矢印の先に薄黒い点として写っている。

1995年の画像では全体に白く写っている部分が広がっていてはっきりしないが,赤矢印の先が心もちさらに白い点になっている。
この年の12月に鉄造やぐら形からFRP塔形に改築されたのだが,1999年4月に倒壊するまでの間の空中写真は残念ながら見つからなかった。

1999年9月では,4月に倒壊した後なのでFRP灯塔の姿は確認できない。おそらく回収された後なのだろう。
灯塔が建っていた赤丸印の中心部分はこの時点でも取り残された河道の中,つまり水の中になっている。
なお赤矢印の先に黒い点が見えるのは同時に倒壊した鋼矢板と思われる。平成11年度末頃撤去されたとのことである。

川口灯台位置の探索もさることながら,これらの画像を見て知津狩川の河口付近の流れは刻々と変化していることにあらためて気づかされる。
実際に訪れて目にする光景であるが,知津狩川は来札水制工の近くで石狩川に合流するのが一般的である。
しかし時にここが堆砂で閉ざされると,石狩川に沿ってしばらく南下した後に河口を開く。
併行した流れは,石狩川が北向きなのに対し,知津狩川は南向き。逆方向の流れなのだ。
それはすぐ上流の聚富川でも同じ。
共通して河口に水制工が設置されていることとなにかしら関係があるのかもしれない。


ほんとうなら,石狩川口灯台が建っていた場所でなんらかの痕跡を拾い出したかった。
しかし入念に原状復帰されていて,これまでのところなにひとつ発見できていない。
かわりに,地形図や空中写真の中に川口灯台の痕跡を探してみた。
こんなことに首を突っ込む奇特な人は少ないだろうが,読んでいただいた方には多少なりとも興味を持っていただければ幸いである。

(2015.11.29)


■■■ 8.もうひとつの導灯 ■■■

● 導灯とは ●

書いてきたように,"石狩川口灯台"と呼ばれるようになったのは昭和48年,後灯を廃して前灯のみになってからである。
それまでは大正5年初点以来ずっと"石狩川口導灯"の時代が続いた。

さてあらためて"導灯"とはなにか?

導灯とは,港や湾の入口などで、船がまっすぐに進まなければ危険なところに立てられる構造物で,通常,航路の延長線上の陸地に設置した前灯,後灯の2基を一対とする航路標識である。
三角形の頭標が付いたものが多く、前灯と後灯の三角形の頂点を一直線上に見ると、 安全な水路の真ん中であるように設置される。

● 石狩にあるもうひとつの導灯 ●

石狩川口導灯はすでにないが, 石狩市には現役の導灯が今も存在している。

石狩湾新港中央水路奥150mほどに1基(前灯), さらにその奥80mほど離れてもう1基(後灯)。
後灯は前灯より5m高く,ともに三角形の頭標をもつ。灯質はともに不動赤光。
正式には”石狩湾港管理組合導灯”というらしい。

位置

2017.02.01

2017.04.14

2017.04.14(前灯)

2017.04.14(後灯)
石狩湾港管理組合導灯と石狩川口導灯の大きな違いは,導く航路が安定しているか否か,である。
少なくとも中央水路の形状は変わらない。
対して河口の地形変化=澪筋の変化に伴って,川口導灯は頻繁に位置を変えて立て直されなければならなかった。

2017.02.01 最初に導灯を訪れた時はまだ雪が深く,近くまではとても近づけなかった。
2017.04.14 雪はすっかり解け保守用にササが刈りこまれていて,導灯直下まで容易に近づくことができた。
前灯は背面,後灯は正面(逆光)。


■■■ 9.その後の石狩川口灯台 ■■■

石狩川口灯台は,1999年4月に倒壊して片付けられ,12月に廃止された。
なにか痕跡が残っていないものかとうろつきまわったが,すべて徒労に終わった。
現地は入念に原状復帰され,FRP製の灯塔も処分されすでに姿かたちもないものと思っていた。

そうではなかった。

今年(2018年)は東京湾の入口に日本最初の近代灯台・観音埼灯台が起工して150年ということである。
2018.10.08 灯台150周年記念行事として企画された”石狩灯台スペシャルツアー”に参加した。
その中で小樽海上保安部の方から「川口灯台はいま,浜益漁港で使われていますよ」との驚くべき情報が得られた。
海水飛沫により防波堤灯台に着氷する状況を観察しその対策を検討することが目的らしい。
北海道教育大学により浜益漁港北防波堤(先端の灯台からおよそ150mほどの位置)に約15mの間隔で2本の灯塔が立てられている。
いずれも高さは4mほど。もちろん灯器は外されている。
1本は鉄製,もう1本はFRP製。そのFRP製の灯塔が川口灯台の再利用ということだ。
文献の③によれば,少なくとも2004年には実験が始まっている。倒壊して5年後のことだ。

翌9日早速確認のために浜益漁港におもむく。
しかしこれらの灯塔はそうとは知らずに前にも撮影したことがあった。

浜益漁港図 (クリックして拡大)

実験灯塔①がFRP製で,川口灯台の再利用
実験灯塔②は鉄製。素性不明。

北防波堤灯台は,入港する船舶から見て左舷なので白灯台
西防波堤灯台は,入港する船舶から見て右舷なので赤灯台

浜益漁港の防波堤灯台についてくわしくはコチラ

2017.11.06-a

2017.11.06-b

2018.10.09-a

2018.10.09-b

2018.10.09-c

2018.10.09-d
2017.11.06 海はかなり時化ていた(石狩新港波浪計で,有義波高は2m超)。西防波堤は歩けたが,北防波堤はとても歩けない。
(a)は港内からの画像で,外海から激しく海水飛沫が襲いかかっている。
(b)はふるさと公園の高台から望む光景で,被った波のために高さ4mの実験灯塔が見えない。波がなければ確認できる
2018.10.09 穏やかな海。北防波堤を先端まで歩く。
(a)は元川口灯台を1基のみしっかりと撮影。頂部の灯室は外されている。
(b)は鉄製灯塔(空色の塗装)とペアで。
(c)は西防波堤赤灯台と。
(d)は北防波堤白灯台と。遠景は愛冠岬。

(2018.10.17)

▲▲▲ 再び倒壊 ▼▼▼

昨年(2019年)秋にも何度か浜益を訪れたが実験灯塔の確認を怠っていた。
2020.03.18 ほぼ1年振りに遠望。何か変。物足りないのだ。左の2枚を拡大して見比べていただきたい(赤丸印)。
浜益漁港に行き近くから確認。やはり空色の1本のみ(b)。(⇒Topics)
かつての川口灯台の再使用灯塔が忽然と消え失せている。
早速漁協浜益支所,さらには小樽海保に問い合わせた。
昨年(2019年)9月,低気圧の通過による波浪の直撃を受けてねっこから折れて倒壊したという。
1995(平成7)年,石狩川河口右岸に建設されたFRP製のこの灯塔にとっては,1999年に次ぐ2度目の倒壊となる。
漁港港内に沈んでいたのを発見され海保によって引き上げられた。
北海道教育大学ではまだ着氷実験に使用中だったとのこと。
最初の倒壊は基礎まわりが抉られて倒れたものでFRPの本体そのもののダメージは少なかったようだが,今回は本体の損傷も大きいらしい。
再々使用に耐えられるのか,はたまたこのまま廃棄処分となるのか,いまのところ定かではない。


2019.04.03-a

2020.03.18-a

2020.03.18-b
(2020.03.19 記)



■■■ 参考文献 ■■■

① 『北海道樺太南部沿岸水路誌 第1巻』    昭和3年10月刊    水路部

② 国立国会図書館 デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/
        明治16(1883)年7月2日の官報創刊日から昭和27(1952)年4月30日までの官報

③ 「防波堤灯台の着氷軽減に関する研究 -膜モデルのテスト-」
④ 「防波堤灯台に成長する海水飛沫着氷の観測」


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