JavaScript を必ず有効にしてください。無効になっていると正常に表示されません。

「花畔」にこだわる旅

画像をクリックすると大きな画像が表示されます。
2007.03.07 開設
2016.03.23 更新
2022.05.13 微修正


旅のおわりの記 2008.01.16

このいち年で,右の目の白内障は随分と進んでしまった。モニターを見る焦点が定まらない。
自転車で走り回ったおかげか,体重は1キロ程度の微減。関節症の膝にも心なしか幾分力がついたような気がする。

「旅」をするきっかけとなったのは,元日の花畔神社だった。あまりの青空にすっかり気をよくした。

次に向かった旅先は花畔大橋。ここをページのゴール地点と決めた。そして一年でゴールにたどりつくことができた。実際にはこの間20回以上花畔大橋に足を運んでいる。


天気がいいのにじっとしているというような日は,寒くなるまでほとんどなかった。在職中は籠もりがちで,地域の変化に無頓着だった私にしては,思えば画期的なことである。同時に,かつての自分を悔いている。


去年は3月で退職,4月からは年金生活という,暮らしの上での大きな不連続が嫌でも見えていた。それに合わせて,生き方の変化の方向を早く見定めなければいけなかった。とくに意識したわけではないが,潜在的な逼迫感があったような気がする。結果的には,後付けっぽいが,「花畔」「花魁淵」「庭の草花」という『花づくし』を洒落て,いち年を退屈せずに過ごすことができた。

いまは違う。暦の上で新たな年を迎えたとはいえ,暮らしの上での連続性はなにも変わらない。締まりがないといえば締まりがない。屠蘇気分がとっくに過ぎ去っても,次の「旅」の行き先が見えてこない。

当面は『番外編』を雑記帳がわりに使って,脈絡なく書きとめていくことの中から次の旅のテーマを見定めたい。


「花畔」にこだわる旅』も実はこれで完結したわけではない。まだまだ知らないこともたくさんあると思うし,花畔自身もさまざまに変化していくに違いない。これからも花畔に関わる新たな発見は,徒然に『掲示板』に書きとめ続けていきたいと思う。


最後に,ほとんどの”花畔こだわり旅”に「私も行くっ」とついてきてくれた女房に感謝する。
今年もついてきてくれるのだろうか?


最後の最後に,ここに足を止めていただいたお客さんへのお願いです。

このページにはたくさんの写真がリンクされています。その中には駄リンクも無いではないかもしれません。が,どの写真も花畔にこだわる中で,文章を補完する意味でも想いをこめて埋め込んでいます。
できることなら,一枚一枚丹念にリンクを開いて見ていただければ無上の喜びです。

なおまた,『掲示板』 にも進んでいただいて,書き込みにも参加していただけることを願っています。
お詫び 掲示板はすべて消滅しました。ごめんなさい。(2014.08.03)

とりあえずなんとか「旅」にひと区切りつけることができたという想いがあって,いきなりエピローグから始まりました。
が,本当は次からが「旅」の始まり,プロローグです。

旅のはじまりの記 2007.07.25

私が花畔団地の住民になったのは1978年(昭和53年)。

1976年12月の町名変更ですでに住所表記は”大字花畔村”から”花川北”に変わっていたが,「花の畔(ほとり)」と書く「花畔」の漢字の地名も,またその読みにして,アイヌ語から転訛したという「ばんなぐろ」という難解な語感もたちまち好きになった。

かれこれ30年近く経ったいま,「花畔」あるいは「ばんなぐろ」が近辺から次々に消滅してしまっているのを感じる。これは寂しい。

この春永年在籍した職場を去った。使い古されてくたくたな言葉なので,「第二の人生」などという言い方は鬱陶しい。また,生に執着するつもりはないことにしている。それにしても,退屈しない程度には体を動かしていたい。

というふたつの想いが交錯して始まったのが『「花畔」にこだわる旅』。

いまこの瞬間,まだかろうじて残っている「花畔」あるいは「ばんなぐろ」をことごとく記録に残しておきたい。

雪の残るころは車で探して歩いたが,小回りが利かない。
5月,風も心地よくなって,自転車を引きずり出した。どこに「花畔」が潜んでいるか分からないので,ある程度の目星はつけつつも闇雲に走り回ることから始まった。

汚い自転車に跨ったへんなおっさんが,あちらこちらふらりふらり徘徊してデジカメを向けているという図は,明らかに怪しむべきものである。にもかかわらず,小学生などは「こんにちわっ」と挨拶を交わしてくれる。嬉しい。

時には女房と肩を並べて走ることもある。夫婦でウォーキングというのは近頃よく見かける光景であるが,夫婦でママチャリング?というのもいいじゃないか…

そうこうしていま,かなりの「花畔」を捕捉した。とはいえまだ旅の途中。

思いつきで作り始めたページである。コメントの記述は勝手気ままに書いていた。

そのうち,自分の記憶のあやふやさ,知識の浅さにたちまちぶつかり,立ち往生することになる。そんなときにはWebの検索でかなりカバーできるのは助かる。

なおかつ分からないことが次々に現れてくる。「花畔」が好きだなんて,いったい誰のことだ?情けない。

この年になって始めて,石狩市民図書館にも通うことになってしまう。勇んで行った最初の日はいきなり出鼻を挫かれる。これでメゲなくて正解。

調べもの相談コーナーの女性職員も親切で好印象。単純に図書館も好きになった。
自転車でうろついてばかりいないで,図書館で時間をつぶすのも悪くない。

私のお気に入りは,2Fの地域行政資料のコーナー。窓の外には花川橋。6,7席ある専用のデスクが空いていれば嬉しい。受験勉強の高校生たちがライバルである。[この項:2008.01.24]

そんなこんな,思いつきのページなので,勝手な憶測をまじえたコメントも書くかもしれない。あまりにもいい加減だったり,明らかに誤った記述があったりしたら,ぜひ指摘していただきたい。


最初に,「花畔」ってなあーに?というお客さんもいるかもしれないので,知りえた歴史的経緯の概略を書いておきたい。

「花畔」 - 地名の由来

「花畔」は,北海道石狩市の中に位置する地名である。

Web上でもあちらこちらに書かれているが,その語源はアイヌ語の「パナ・ウン・グル・ヤ・ソツケ」。「パナ・ウン・グル」は”川下の人”の意で,「ヤ・ソツケ」は”漁場”のこととか。(山田秀三「北海道の地名」)

「バンナグロ」はそれらの上部「パナウングル」がなまったもので,「花畔」の命名者は開拓使岩村通俊判官ということになっている。

なお古書でのカナ表記には,「バンナグロ」のほかに,「バナングル」「ハンナンクル」「バンナルクル」「ハンナンコロ」「パナンクル」などもあるという。(日本歴史地名大系1「北海道の地名」)
なんとなく楽しい。。。

さてここでいう”川下”とは,石狩川で神居古潭より下流のことを指すらしい。

神居古潭より上流,上川盆地あたりの人々をペニウングル,下流,深川・滝川あたりの人々をパニウングルと呼んでいたらしいことも書かれている。発音表記の違いがあっても,パナウングル=パニウングルと考えてもよさそうだ。

パナウンクルは鯱や鮫を部族の氏神とする海の族,ペナウンクルは熊を氏神とする山の族,ともある。(更科源蔵「アイヌ地名解」)

花畔界隈はかつて深川・滝川あたりのアイヌの部族の漁場だったのだろう。だとするとかなり距離の隔たりがあるわけだから,漁期には部落丸ごと移り住んで長逗留,あるいはその一部が住み着いてしまったのかもしれない。

ついでに 「樽川」の地名は,現・新川河口付近の小樽内川(アイヌ語で「オタ・ナイ」あるいは「オタ・ル・ナイ」:”砂浜の川”の意)が略されてできた名前という。
かつてオタルナイ場所の置かれていた「オタルナイ」は,小樽市の地名の発祥地でもあるとされている。

「生振」はアイヌ語で「オヤ・フル」。”次の丘”あるいは”川尻の丘”の意であるとか。

余談ながら,「ヤ・ソツケ」は”差網場”のことだという。厚田村(現・石狩市厚田区)に”安瀬”と書いて”やそすけ”と読む地名(集落)がある。いまは故人となった旧い友人が山荘を建てたので何度か足を運んだことがある。 (安瀬の山荘から望む石狩湾)

話を戻そう。

「花畔村」 - 生い立ち

岩手県からの南部団体39戸の入植などにより,1871年(明治4年)に花畔村開村。

同年,宮城県から29戸の入植などにより生振村も開村している。

かつてイシカリ場所の置かれていた石狩市街地でも,1871年,川西に親船町,船場町,弁天町,横町,本町,仲町,新町,浜町,そして川東に若生町,八幡町の合せて十ヶ町が誕生した。高岡,五の沢などを含む丘陵地は八幡町に含まれていた。

樽川村は1880年(明治13年)から開拓が始まり,開村は1882年(明治15年)。1885年(明治18年),山口県から20戸入植。

花畔村と樽川村の境界は斜め防風林(花川南防風林)とされた。<注7>

現在の区画でいえば,花畔村は,新港(中央,東,南),志美,花畔,花川北,花川南(防風林以北),花川,花川東,緑苑台にまたがる。

樽川村は,新港(西,中央の一部),樽川,花川南(防風林以南,俗に南線),および1975年(昭和50年) 石狩湾新港建設実現を優先した結果ゴネた小樽市に割譲された銭函4,5丁目

1893年(明治26年) 花畔,軽川,生振の各原野の殖民区画測設が実施され,その区画に基づいて入植者への土地貸与が許可されることになる。300間(約550m)間隔で縦方向に○線と呼ぶ道路,それと直角に横方向に○号と呼ぶ道路とが碁盤の目状に設定された。300間四方の区画は中区画と称されるもので,線と線の間を二等分(150間間隔),号と号の間を三等分(100間間隔)して,中区画を六等分した小区画(5町歩)を標準耕作面積として貸与された。

またこのとき,市街地,学校,神社,墓地,防風林などの位置も定められた。

北海道庁により1894年(明治27年)3月30日に発行された『石狩国石狩郡樽川花畔原野区画図』(石狩町誌中巻二)によると以下のように区画されているのがわかる。<注1>

花畔原野(現・花畔,新港地区の斜め防風林以北)では,縦はヤウシバに零線<注2>を設定し,これを基線として第一線から第十四線まで制定された。横の一号はマクンベツあたり<注3>に引かれ,四号が石狩街道<注4>に重なり,さらに八号まで制定された。

軽川原野(現・花川北,花川南,樽川,小樽市銭函4,5丁目)では,縦は軽川大排水<注5>に沿って第一線を設定し,ここから第十二線までが制定された。横は軽川道<注6>を一号として,ここから海岸方向へ七号まで,旧追分川,発寒川方向へは四号まで制定された。同じ号数が重複することにより,海岸方向へは西○号,反対側は東○号と呼称される。

これにより花畔村では同じ番号の線がふたつできることになり,花畔原野の方を北○線,軽川原野の方を南○線と通称するようになったらしい。南○線東○号地区(とりわけ現在の花川南地区)がその後南線地区と呼ばれるようになった契機なのかもしれない。

殖民区画測設後開拓が加速され,花畔村には1894年(明治27年)以降石川県から加賀団体69戸などが入植,一方樽川村には大農場(前田農場,町村農場,興農園,極東煉乳(後の明治乳業)など)も進出する。

1898年(明治31年) 軽川原野に引かれた第三線をもって石狩郡と札幌郡との郡界とすると決まった。

昭和40年代に入ってからの団地造成,新港建設,あるいは新たな土地区画整理などにより,このとき作られた線,号の痕跡がほとんど失われている地区もあるけれども,花畔,樽川の今日の町並みの骨格は,実はこのときできあがったと考えられるほど,大きな意味を持つ事業だったといえる。

ついでながら,『石狩国石狩郡樽川花畔原野区画図』では現在の南花畔通を境にその東側には区画が記されていない(現・花川東,緑苑台地区)。そこには創成川左岸まで至る広大な農場があったという。1894年(明治27年) 旧加賀藩主前田家が開いた前田農場である。その後前田家は軽川でも樽川村まで跨って農場を開設し,やがて事業の軸足をそちらに移す。これが手稲区前田の名の起源となった。

1902年(明治35年) 花畔村と樽川村とは合併して花川村となる(二級町村制)。
同年,親船町など10町も生振村とともに合併して石狩町となる(二級町村制)。

1907年(明治40年) 石狩町と花川村が合併。一級町村制を施行。
それ以来,花畔村,樽川村は石狩町の字名となり,それぞれ「大字花畔村」「大字樽川村」と呼ばれることになる。


<注1> 【参照】 石狩国石狩郡樽川花畔原野区画図

<注2> 現在の道道矢臼場札幌線よりおよそ60mほど南側の道路だと思われる。その先に1902年(明治35年)開通とされるかつての石狩銭函間道路(銭函道路, 旧道道小樽石狩線)の痕跡が残る。痕跡を辿ると,やがてゴミの不法投棄場で行き止まりとなる。

<注3> 現在は茨戸川運河の東側で,札幌ベイゴルフ倶楽部があるあたりだろう。ミズバショウ群生地と同じような湿地帯だったはず。道路がはたしてできたものなのかどうか?

<注4> 現在の国道231号線および道道石狩手稲線の花畔-石狩間直線部分。1874年(明治7年)開削。

<注5> 現・新川。1886年(明治19年)から2年がかりで掘削された排水溝。

<注6> 現在の道道石狩手稲線の花畔-手稲間。1889年(明治22年)開削。

<注7> 1896年(明治29年)製版の5万分の1図によると,花畔村と石狩町(親船町)との境界は,花畔北3線にほぼ重なるように直線で引かれていることが分かった。だとすると現在の志美地区の大半は,当時は親船町の町域だったということだろうか。
また,生振村と八幡町との境界は,現在の北生振8号線に重なっていたようである。
[この項:2008.01.17]

ちなみに,開拓使が設置され札幌本府の建設が始まったのは1869年(明治2年)。
開拓使庁が札幌に移ったのは1871年(明治4年)である。

★★★ ここから60年ほどは一足飛び ★★★

「花畔」 - 最近40年の変遷

町並みを大きく変えることにつながったできごとだけを,いくつか列挙しておこう。

1965年(昭和40年) 内外緑地株式会社により,旧南8線(現,花川通)以南で新札幌団地の分譲が始まる。

1970年(昭和45年) 第3期北海道総合開発計画が決定され,石狩湾新港建設が具体化する。

1971年(昭和46年) 新住宅地開発法の適用を受け,北海道住宅供給公社により,花川通以北での花畔団地の造成が開始される。

1973年(昭和48年) 花畔団地の分譲が始まる。

同じく1973年にはまた,石狩湾新港港湾工事が開始される。

1975年(昭和50年) 大字樽川村の一部を小樽市に割譲し,境界変更を施行する。

1976年(昭和51年) 字(町)名変更され,大字花畔村,大字樽川村から,花畔団地地区は花川北に,新札幌団地地区は花川南になる。

1989年(平成元年) 花畔市街土地区画整理事業が起工される。

1993年(平成5年) 石狩町新庁舎が完成する。これにより,いわゆる"石狩都心"が本町地区から,花畔および花川北地区に移ることになる。

1994年(平成6年) 緑苑台ニュータウンの分譲が始まる。

1995年(平成7年) 明乳パストラルシティの分譲が始まる。

1996年(平成8年) 市制施行に伴い市内の字名が大幅に変更される。

1999年(平成11年) 畔の街(花川東土地区画整理組合)の分譲が始まる。

2005年(平成17年) 石狩市厚田村浜益村合併。


なおこのページの文章はこれで終わりではありません。。
かなり頻繁に書き加えたり書き直したりすることがあるということを,あらかじめお断りしておきます。




2007.01.01撮影

今年のこれほど深く濃い蒼空は,冬には珍しい。
花畔こだわり旅は,2007年のその年明けとともに始まった。
なぜか毎年元日の朝の恒例行事となっている花畔神社への初詣。
新しいおふだを受けてくる。
同時に欠かさず購入する破魔矢の飾りになっている干支の絵馬が,近年の密かなコレクションのひとつである。

2007.01.01

夏の花畔神社全景(2007.06.30撮影)
初詣
どんど焼き
秋祭り


2007.01.27撮影

花畔団地の東縁を走っているのが南花畔通り
花川通側起点花畔茨戸通側終点
地下鉄麻生駅石狩市役所を結ぶ中央バス路線(南花畔通線)となっている。

速度取締りが行われる名所でもある
北方向へは花川北6-4のバス停付近で,しばしば速度取締りレーダーを見かける。(この行 2008.05.03)
南方向へは防風林で緩く右カーブする手前が定番位置。(この行 2008.06.22)
四角いレーダーばかりでなく,丸いのもつかわれる。油断ならない。(この行 2008.08.04)
パトカーは神出鬼没。この時は花川北配水場の裏,自衛隊演習場入口。(獲物発見!追跡開始の瞬間)
幸いここではまだ捕まったことはない。

「花畔村」 - 生い立ち”でもふれたが,この道路は1894年(明治27年)発行の『石狩国石狩郡樽川花畔原野区画図』にしっかり記載されていることからしても,かなり古い歴史を持つものであることが分かる。
紅葉山砂丘の西北端沿いに開削されたものであろうことは容易に想像がつくが,この道路の由緒についての記述は未だ見つけていない。

2007.12.05改訂

冬の紅葉山を背景に(2008.01.19)


2007.01.30撮影

道道273号花畔札幌線 (起点の石狩市役所前)
茨戸の創成川通までの間は,通称花畔茨戸通

明治初期,石狩札幌間の唯一の幹線道路。1888年(明治21年)創成川沿いの茨戸新道が開削されるまでは,この道がいわゆる「石狩街道」であった。
花畔茨戸通は,1990年(平成2年)に花畔大橋茨戸大橋が完成して生振経由の新道が開通するまで,札幌と留萌を結ぶ国道231号線の一部として併用されていた。

茨戸橋を渡ってからは伏篭川につきつはなれつしながら札幌駅近くまでグニョグニョ走り,元村街道とも呼ばれていたという。元町あたり(札幌村郷土記念館がある)から通称ななめ通り。道庁を目指しているかのよう。1925年(大正14年)ころ埋め立てられたという大友堀も,この道にほぼ平行に掘削されたのだろう。

2007.12.03改訂



2007.01.30撮影

花畔団地は北海道住宅供給公社により1973年3月から分譲が始まった(表紙裏表紙概要)。分譲時の住所は「石狩郡石狩町大字花畔村」。
まもなく(1976年12月)大字花畔村の一部と大字樽川村の一部を合わせて花川と改称され,花川通を境に,花畔団地は「花川北」に,南線地区に開発された新札幌団地は「花川南」となった。
中央バス路線に,このバス停を始発として札幌市営地下鉄南北線北24条駅間に花畔団地線が開通したのは1976年2月。
南北線北24条駅-麻生駅間が開通したのは1978年3月である。

2007.03.06



2007.03.19撮影

ここは,石狩ではなくて,札幌市。

中央バス花畔団地線の札幌市営地下鉄南北線麻生駅バス停
ここを始発点する花畔団地線は,長らく花畔ゆきと花畔団地ゆきであったが,現在は,花畔ゆきと石狩庁舎前ゆきである。
花川3丁目経由の@のりばと,5丁目経由のAのりばとがある。

2007.03.26



2007.04.07撮影

中央バス,花畔終点バス停
花畔神社の北西側花畔バスターミナルが隣接している。
始発のバス停はターミナル内にあって,待合所も設置されている。
麻生から酔っ払って乗って眠りこけ,終点でたたき起こされたことが何度かあったものだ。これからもあるかもしれないが…
ここ花畔まで連れて来られると,帰りがかなり辛い。

2007.05.15



2007.05.20撮影

JAいしかり花畔支店の前にあるバス停。その名の通り,花畔旧市街地の中心地であり,かつ今でもそうであることを主張しているかのようである。
JAいしかり花畔支店の裏手に,花川小学校が隣接する。
かつてはそれぞれ,「花畔農業協同組合」,「花畔小学校」であった。
とはいえ,花畔小学校が花畔尋常小学校を経て花川尋常小学校と改称されたのは明治37年(1904年)のこと。
道路の反対側のバス停から,石狩市役所庁舎を遠望する。

2007.05.27



2007.05.20撮影

「花畔中央」のひとつ北側に位置するバス停。
古くからある蕎麦屋「そば平」の前にある。かつては「そば平」に隣接して「すし平」もあったと記憶するが,今は「そば平」のみ。
位置的には10線と11線のちょうど真ん中くらい。かつてのバス停は,より10線寄りの位置に置かれていたという。
バス通り「道道石狩手稲線」に茨戸川が急接近するため,ここからしばらく人家が途切れる。

2007.05.27



2007.01.27撮影

JAいしかり(石狩市農業協同組合)花畔支店
所在は,石狩市花畔1条1丁目
レンガ造りの倉庫を2棟有していたが,現在その1棟は,2002年からNPO法人Art Warmによりフリースペースとして活用されている。

2007.06.07



2007.05.22撮影

花畔・銭函間運河跡」石碑 (1996年建立)
花畔・銭函間運河(延長14.5km,1897年竣工)については,裏の碑文に詳しい。
運河は,茨戸川につながる樽川河口に名残を残す。
石碑裏手に,木造ログ造りの花川橋がかかっている。
ことのついでに,もうひとつの「札幌・茨戸間運河」である現在の創成川風景(逍楊橋より上流を望む)。
創成川は,発寒川伏篭川合流茨戸川に注ぐ。

運河の名残

【参照】 花畔銭函間運河線平面図・札幌茨戸間運河線平面図

2007.06.20



2007.06.25撮影

花畔中央会館
2001年(平成13年)オープン。花畔中央町内会の集会所。
道道石狩手稲線 に石狩市設置の案内標識が見られる。
中央会館前の道路・花畔3号通はもとより,この界隈は1989年(平成元年)に起工された土地区画整理事業により景観が一変した。小奇麗になればいい,というものでもないと思うのだが。
石狩市防災マップによるとここに同居していたことになっている石狩市花畔市街土地区画整理組合は,区画整理事業の完成に伴って2006年に解散してしまったとのこと。

2007.06.30



2007.06.25撮影

花畔農住会館。花畔農住団地町内会の集会所。
こちらも道道石狩手稲線 に石狩市設置の案内標識が見られる。
花畔および樽川農住団地の形成は,石狩湾新港開発と深く関わっている。
花畔,樽川一円の民有地が新港開発計画地域として北海道企業局に買収されることになる。1971年(昭和46年),用地買収交渉妥結。農業者たちの農住団地移転が完了して,1973年(昭和48年)に新港港湾工事が着手される。
また同時に,かつて海水浴場としても賑わったオタネ浜,十線浜地区の漁業者たちも立ち退きを強いられ,漁民団地に移住することになった。
ところで,農住団地婦人会は,かつて花壇造りなど地域内美化運動で華々しい活躍をした形跡など残されている。はたしていまは…?

2007.06.30



2007.07.04撮影

花畔市街浄水場
当たり前のように立ち入り禁止。看板に猛接近不能。
2本の深井戸により,花畔旧市街地を中心に給水している。
ちなみに花川北地区は札幌市からの分水で,花川北配水場から給水されている。

2007.07.08



2007.01.27撮影

ふたたび花畔神社
1872年(明治5年),農業,漁業・航海の守護神とされる金刀比羅宮の祭神を祀り,花畔村金刀比羅神社として北八線(現在の花畔共同墓地のあたりらしい)に創立されたと「由緒」にある。
1973年(昭和48年),石狩湾新港開発に伴って,現在地に社殿を新築し移転した。
丸に「金」文字の金刀比羅宮の神紋がくっきり(2001.01.01)。

2007.07.20

1953年(昭和28年)発行の25000分の1図によると,移転前の花畔神社の位置は北八線に記されている。現在"花畔公園"とされている新港南2・未整備ゾーンの一角である。(2008.08.14)


2007.04.07撮影

花畔瑞穂神社
1951年(昭和26年),札幌神社からの分霊を受けて花畔市街地に創立されたという。
1882年(明治15年),北三線(志美)に建立された相馬妙見太田神社とともに,1973年(昭和48年),花畔神社が移転されるとき,同時に合祀されることになったと「社誌」にある。
馬頭観世音碑は,大正末期に北12線で開催されていた草競馬の馬たちの霊を慰めるために1927年(昭和2年)に建てられたものであるという。

2007.07.20



2007.07.18撮影

しつこいようだがもう一度,花畔神社社務所
最後に,境内にある石碑のいくつかを眺めてみる。
創立百二十年記念 御祭神の碑 由緒 平成4年
花畔村開村百年記念碑 碑文 昭和45年
花畔村開村五十年記念碑 大正9年
南部団体 花畔入地百十五年記念開拓碑 碑誌 昭和60年
加賀団体 花畔樽川開拓百年記念碑 碑誌 平成6年
石川県人 移住紀念碑 碑文 明治32年
花畔土地改良区花畔地区 解散記念碑 碑文 昭和50年
花畔十線用水組合 創田之碑 碑文 昭和50年
花畔地域戦没者慰霊平和祈念之碑 碑文 平成9年
石狩湾新港開発あるいは花畔市街土地区画整理事業に伴って,発祥の地からこの境内に移設されたものも多い。

2007.08.06



2007.04.07撮影


2007.06.07撮影


2007.06.27撮影


2007.06.25撮影

いずれも1989年(平成元年)に起工された花畔市街土地区画整理事業において,その目玉として新設ないし改良整備された道路である。

【参照】 2000年(平成12年)発行 花畔市街土地区画整理事業 工事完成記念誌 より
・事業施行前
・事業施工後

花畔環状通
延長約2kmの市街地区内幹線道路。
花畔茨戸通,石狩手稲通にそれぞれ直角に接続する起点(花川北6-5)終点(花畔3-1)部分を除いて,市街地区を大きく湾曲して縦断する部分は完全な新設路線と考えられる。
見場よくレンガ舗装された歩道に,部分的にではあるが雑草が生い茂っているのはいただけない。

花畔1号通
花畔茨戸通と花畔環状通とを結ぶ。
位置からすると,かつての軽川原野東2号(花川南3丁目通)の延長線上と重なるのだろうか。

花畔2号通
花畔茨戸通と花畔環状通とを結ぶ。
石狩手稲通(手稲花畔間)と花畔1号通に平行して,中間に位置する。

花畔3号通
石狩手稲通(本町花畔間)と花畔環状通とを結ぶ。
旧花畔村北11線通。
ここでのほかの道路とは異なり歴史を感じさせられる道路である。

かつては村の境界であった斜め防風林を過ぎると大きく左へ湾曲し,樽川村を横断して銭函に向かっていた。1895年(明治28年)に起工された花畔銭函間運河に添っている(茨戸川に近い部分を除く)。実は運河の掘削土を盛土して造られた幹線道路だったという。
石狩湾新港開発に伴い樽川地域の外殻に路線を切り換えられ,花畔大橋の開通などと相まって1990年(平成2年)に道央新道の供用が開始されるが,それまではこの道路こそが,1975年(昭和50年)に小樽千歳間の国道として昇格施行された337号線(の一部)でもあった。

【参照】 1987年(昭和62年)発行 石狩町ハンドブック 観光イラストマップ

花畔3号通の延長線上の旧北11線通は,現在は道央新道と交差してから右に角度を変えて港通となり,道道小樽石狩線でさらに右に角度を変えて花畔幹線となって花畔埠頭に向かう。
道央新道-小樽石狩線間には旧337号線の痕跡は残っていない<注1>が,旧運河の跡は見られる。小樽石狩線の西側には旧337号線の名残の道がしっかり残っている。再度確認のために行ってみると,ライジング・サン・ロックフェスティバルにこの界隈がまるごと占拠されていた(2007.08.17)。

<注1> 見落としていたことを後で知ることになった。旧337号線の痕跡はまだ残っている。やがてその一部は新港中央水路の底に沈むことになるのかもしれない。(2007.08.30)。
道央新道-小樽石狩線間:道央新道側から
小樽石狩線の西側:小樽石狩線の側から
小樽石狩線の西側:樽川幹線(旧樽川9線)の側から(ただし立入禁止)

2007.08.15



2007.07.18撮影

花畔環状橋
花畔環状通が旧運河跡の樽川を渡る橋。平成6年9月竣工
環状橋から望む,夏枯れの樽川上流下流
近くには風変わりな四阿風が建つ。
 ---ほかの樽川に架かる橋---
花川橋<注1> : 茨戸川に注ぐ河口に最も近い木造人道橋。平成8年3月竣工。
はまなす橋 : 花川橋と花畔環状橋との間にあって,道道石狩手稲線の橋平成6年11月竣工

2007.08.24


<注1> 花川通発寒川に架かる橋も花川橋という。(2008.03.29)


2007.08.26撮影
JAいしかり生振事業所


2007.08.26撮影
土地改良区全国組織からの銅賞受賞記念に建立された


2007.08.20撮影
生振地区ではいまでも灌漑用水がさらさらと流れている

石狩花畔土地改良区の軌跡 (花畔界隈の田んぼ)

昭和2年 花畔十線用水組合設立
昭和3年 電力揚水により砂地の水田化に成功
昭和5年 花畔土功組合を設立,潅漑事業に着工
昭和6年 計画通りに砂地開田に成功
自費によるこうした努力は畑作酪農経営を補完したばかりでなく,戦後の造田の礎となった。
昭和25年 花畔土功組合を組織変更して,石狩花畔土地改良区を設立
石狩町内下記6地区で構成
花畔,南線,樽川,志美,生振,北生振(昭和35年分離)
戦後農地改革と相俟って積極的に造田が進められた結果,水稲作付面積は飛躍的に増加し,石狩は道内有数の穀倉地帯とされるまでになる。
しかしその後,長期的視野を欠いた食糧政策などにより,昭和40年代中ごろから減反,転作を強いられることになる。
さらに,旧花畔村,樽川村地区では,都市化,工業化の波に襲われる。
昭和39年 南線地区,新札幌団地造成に伴い土地を供出
昭和46年 同じく南線地区,花畔団地造成に伴い土地を供出
昭和46年 花畔,樽川,志美地区の大部分の水田を,石狩湾新港後背地として供出することとなる
昭和50年 花畔地区砂地水田の歴史に終止符
花畔土地改良区事務所を生振農協内に移転

【参照】
紅葉山公園 南線地区開発記念碑 (碑文)
花畔神社 解散記念碑 (碑文)
創田之碑 (碑文)
花畔北13線6号 我等先祖の地を離れ…」碑
樽川神社 樽川村移転之碑
南線神社 開田之碑
樽川公園 樽川発祥之地」碑 (碑誌)
了恵寺 創田之碑 (移設ノ記)
生振創生園 開田之碑
水鴻恩」碑 碑文
これらの記念碑のいくつかには,時の大臣や知事の名が麗々しく彫られている。皮肉にも,農業者たちの労苦の結晶ともいうべき貴重な農業資産を顧みることのなかった為政者として,後世に名を留めることになるのであろうか。
同時に,そうした地に居を構えている人間のひとりとして,私自身も時として忸怩たる思いにかられるのである。
私が花川北に移り住んだ1978年(昭和53年)には,南線地区の発寒川沿いに青々とした田んぼがまだ残っていた。夏の夜にはカエルの大合唱が響き,朝になるとわが家の庭にも緑のアマガエルが遊びに来ていた。
それもほんの数年のこと。たちまち田んぼは消えてなくなり,アマガエルも姿を見せなくなってしまった。

隣家では毎年発泡スチロール箱を利用したミニ田んぼが作られる。幼少期を北十線で育ったという奥様の稲作への郷愁の深さを感じる。

旧花畔村でも北3線から志美地区に行くと,今でも田んぼが残っていてほっとする。

2007.09.01

隣家のミニ田んぼでは,今年も元気に穂が出揃った。 (2008.08.10)
実るほど頭の下がる稲穂かな (2008.08.28)


2007.08.28撮影


2007.05.16撮影


2007.05.16撮影


2007.08.28撮影


2007.08.28撮影

● 花畔地区のそのほかの道路
港通
東ふ頭線
● 樽川地区の道路
樽川中央通
樽川ふ頭通 (道道1066号石狩湾新港線)
樽川幹線
樽川ふ頭線
流通通
● 両地区を縦断する幹線道路
小樽石狩通 (道道225号小樽石狩線)
・道央新道 (国道337号)
石狩手稲通 (道道44号石狩手稲線)
・石狩通 (国道231号)

石狩湾新港地域内で,名前に「花畔」がついている幹線道路
(大きな地図は下をクリック)


花畔地区の道路
(別画面で)

樽川地区の道路
(別画面で)

現状では,樽川地区のいくつかの道路は,そのほとんどすべてが,あるいは一部が小樽市の市域に属している。

「・・・通」とつく道路と,「・・・線」とつく道路がある。
石狩市の都市計画統計資料によると,市の都市計画道路はすべて「・・・通」の名がついている。ということは,ここで道道,国道以外の「・・・線」と名のつく道路はいわゆる「臨港道路」で,石狩湾新港管理組合(管理者:北海道知事)が管理している,ということなのだろうか。あるいは国なのか,道なのか。

新港地域内のあれこれ
A,B 道道小樽石狩線は225号なのだが,この2ヶ所にはなぜか115号の誤表示<注1>。これら以外には誤りはなさそう。
C,D 道道石狩湾新港線は1066号のはずだが,始点でも終点でも66号との表示。4桁表示ができなくてこうなったのかな?だとしたら,情けなくも微笑ましい。
E 樽川2号通から見える廃屋の侘しい佇まい。
これもまた,新港建設と直接間接に関わる風景なのだろうか?

石狩湾新港の風車たち.....立ち位置を少しずつ変えて
a, b, c 石狩放水路上流・国道231号茜橋側から
d 石狩放水路下流放水路水門側から
e, f 冬の風車たち (2008.01.16)
g 生振から遠望 (2008.12.08)
市民風車
かぜるちゃん
(案内板)
2005年, 1500kW
市民風車
かりんぷう
(案内板)
2005年, 1650kW
10/28 落雷対策の点検をしていた。
頼んで,中に入り見上げてきた。(野次馬)
開発局の
小型風車
1997年, 80kW
だいぶ小柄ながら市民風車の兄貴分に当たるのだが,足下?をひと回りしてみても名前などは書かれていない。
石狩放水路の水質改善のために河床に空気を送り込むエアレーション装置の動力用などとして設置されたとのことだが,ここんとこ廻っている姿を見たことがない。

気持ちよさそうに回転する小型風車の姿を初めて目撃した。どんな風の吹き回しだったのかしらん??? (2008.03.19)
第3の市民風車
名前はまだない
9/05 花畔埠頭で偶然羽根を目撃。これなぁ〜に?のレベル。
9/18 クレーンを確認。このときもまだ意味不明だった。
9/23 2枚目の羽根の取り付け作業中。見惚れていた。
9/24 組立完了。下ではクレーンの撤去作業中
9/26 逆光
11/4 3つ揃って回転している姿を始めて確認。
2008.07.12 名前がついたっかなみちゃん
1650kW


<注1> 知識不足を露呈してしまった。
道道小樽石狩線は1957年に路線認定され,そのときの路線番号が115号だったということである。この誤表示と思える標識は古いものがそのまま使われているということなのだろう。それもまたいかがなものか,と思えるのだが。
路線番号が225号に変更されたのは1994年とのことであり,国道337号(道央新道)同様,新港開発に伴い大きく路線変更されたことは明らかである。
「石狩町誌上巻」に綴じこまれている地図『石狩のアイヌ語地名』を見ると,「石狩街道」から矢臼場で分岐して保安林添いに海岸にほぼ平行に走り,今は新川右岸側が落ちて通行不能のオタルナイ橋(左岸側からも見てみる)を渡って銭函に通じる,1902年開通の通称「銭函道路」が「道道小樽石狩線」と明記されている。
(2007.09.10)
追記 : オタルナイ橋については,廃橋ツアーを参照されたい。(2013.08.27)

2007.09.09

新港地域のメガソーラーたち.....そうそう,太陽光もとりあげておかなくては…

ソーラーファーム石狩 (案内板)
北ガスジェネックス
2013年, 1200kW
石狩市新港南太陽光発電所 郵船商事/日本コンテナ・ターミナル
2014年, 500kW
(次と合わせて石狩市で2000kWとのふれこみ)
石狩市新港西太陽光発電所 (案内板)
郵船商事
2014年,1500kW
IMCソーラー発電所 (案内板)
石狩新港機械金属工業協同組合
2015年, 1960kW

2015.11.23


増補改定2版道路地図 (別画面で)

花畔地区

樽川地区

増補 新港地区内のあれこれ

F 国道337号沿い内陸側に,軽川原野旧1線(新川沿い)から3線までほぼ直線的に掘削されている排水溝(現在の市域でいえば札幌市)は,花畔銭函間運河の名残だとされる。
この排水溝が運河の原型をとどめているかどうかの確証は,自分にはない。ただ,爽やかに水際公園化された山口運河よりははるかに原型に近いものと思われる。
3線以北の新港地域内では運河はすっかり埋め立てられてしまったようである。Google Earth で見てみると,運河跡と思われる凹凸が地表上にかすかに確認できる(画像取得日 2005/5/12))。
(この項 2007.10.04)
国道337号の新川にかかる橋・第一新川橋の脇の水門も,旧花畔銭函間運河の今の姿なのだろう。
(この項 2008.05.14)

A 石狩湾新港管理組合
当初は現在石狩美術館のある位置(旧サポートセンタープラザ内)にあった。
新港管理組合はその後移転し,現在はこの建物
どうやら伊藤組の施設内にあるようだ。
案内標識には相変わらずイカリがぶら下がっている
(2014.08.02)
B 石狩湾浄化センター
石狩湾の浄化を一身に担っているかのように名前は壮大だが,要するに新港地域内公共下水道の浄化処理施設ということだろう。
浄化センターの右側の建物と市民風車かりんぷう
C ポートインフォメーション
函館税関小樽支署石狩出張所も,同じ新港ビル内に入居している。
D 津波警報装置 と 海岸緑地
警報装置を制御していると思われる,こじんまりとした「安全情報伝達施設警報局舎」がすぐ近くに立つ。ネームプレートが外れて床に落ちていたりするのにうらぶれた親近感。
周囲は緑地化されていて,入港する船舶に石狩湾新港をアピールするためとかいう「ISHIKARI」の大看板あり。作ったものたちも,あまり期待していないのではなかろうか。
E 協同組合石狩新港卸センター組合会館
新港地域の開発を進めている第3セクターの石狩開発も入居している。
石狩開発といえばかつては,国道231号(石狩通)から折れて花畔墓地へと向かう角地に建っていて,格好の目印となっていたものだ。その地からはいつの間にか消えてしまった。
組合会館にはレストラン笹家が隣接している。
F 石狩市リサイクルプラザ
いずれ見学してみたい場所のひとつ。
G

石狩市シルバー人材センター

一度説明を聞きに伺ったことがある。わがままな私はいまだ登録せずに,こんなページを作って暇潰ししている。
H 石狩新港運送事業協同組合会館
I 石狩新港機械金属工業協同組合組合会館
J 北海道水産林務部漁港漁村課実験室
漁港を建設するにあたり、漁港入口等の航路や港内での波浪対策、また、漁港内が砂で埋塞しないよう防波堤を設置する際の位置などを検討するための模型実験を行っている施設であるとのこと。
事前に連絡することにより,施設の見学も可能であるらしい。
(2007.11.15追記)

A 川の博物館, 石狩川歴史の森
石狩放水路管理センターも併設されている。
石狩放水路は1976年(昭和51年)着工,1982年(昭和57年)完成。
川の博物館全景
歴史の森 案内文
歴史の森 記念碑
B サン・ビレッジいしかり
2000年,石狩勤労者総合スポーツ施設としてオープン。
現在は,石狩市多目的スポーツ施設。
まだ入ったことがない。
C 石狩美術館
旧サポートセンタープラザを改装して今年(2007年)開館。
美術館前のバス停は今でも「センタープラザ前」。
私たちもいちどだけ鑑賞させていただいた。
ママチャリで汗かいて訪れる貧乏人には場違いな雰囲気,というのが率直な感想である。
D ハマナスプロムナード
樽川埠頭の突端まで続いている散歩道。
行き止まりに,意味不明のモニュメントが立っている。
E オーシャンパーク (パークゴルフ場)
F サーモンファクトリー
ちかごろグルメおにぎりが小さくなった。気のせいだろうか?私は"ミックス"が好き。。。
ありが塔上からなら,いい風車の写真が撮れるかもしれないと思ったが,すべてガラス越しなので期待はずれ。
G 朝獲りさけ直売所
X 花畔墓地
Y 樽川墓地

青葉公園
樽川公園
石狩ふれあいの杜公園
志美, 花畔, 柏, 港公園 立入禁止だったり,あるいはまったくの未整備。
どのような未来像が描かれているのだろうか?

2007.09.17



2007.09.13撮影

国道231号沿いに立つ,石狩市営花畔墓地の案内標識

花畔墓地には,1983年以来私も世話になっている。
(が,そこに私はいません. しかも,千の風になれそうにもありません.)
この日墓地の写真を撮っていたら,パトカーが何度も警らに現れた。事件でもあったのか?こんなとき職務質問されたら,しどろもどろになってしまうかもしれない。
それはそうと,この案内標識はとても見えにくい場所に立っている。角地にあるガソリンスタンドとのからみもあるのだろうが。

石狩市の市営共同墓地としては,花畔墓地のほかに,近くでは樽川墓地生振墓地親船墓地(石狩斎場に隣接)などがある。
樽川墓地は,現在は小樽市の市域(銭函5丁目)に属するが石狩市の管理ということなのだろう。
逆に,石狩市の市域(花川東)に存在する屯田墓地は札幌市営墓地である(札幌市営墓地で札幌市域外にあるのはここだけ)。屯田墓地についてはこちらでも。

それはともかく,花畔墓地そのものの看板もあってもいいのではないか。かなりくたびれてはいるが,生振墓地五の沢墓地などでは墓地正面の看板が健在である。

2007.09.18


2008.06.28撮影

花畔墓地にある吉成多三郎の墓

かなり風化も進んでいるので見にくいが,墓碑には「花畔」の文字が刻まれている。
正確には『故邨社花畔神社掌吉成多三郎墓』。
(「邨社」は「村社」と同義。村社の神職を「社掌」と称した)
1901年(明治34年),北海道庁に陳情して花畔神社は公認されるが,そのときの神職が吉成多三郎だったという。行政が神社の正統性にお墨付きを与える,いまではとても信じられない政教一致を垣間見る。
花畔神社由緒に見られるように,前身の花畔村金刀比羅神社が建てられたのは北八線ということだから,この墓地の近くだったのだろう。
新港開発に伴って移設される前の樽川神社も,発祥の地は樽川墓地とさほど離れぬ位置にあったという。

2007.09.18



2007.05.16撮影

"花畔"の文字が見られる唯一の案内標識

"埠頭"ないし"ふ頭"の文字を後ろに従えず,単に"花畔"と表記された案内標識は,いま現在これのみである。
港通を小樽石狩通(道道225号)から道央新道((国道337号)に向かって進んだ交差点手前,左側路端に設置されている。
表示どおりに直進すると,旧花畔北11線に進入し,花畔3号通を経て石狩手稲通(道道44号)・花畔市街地に突き当たる。従ってこの表示が"花畔"であることに疑問をさしはさむ余地はない。
この同じ交差点で,道央新道の両側に設置されている2つの案内標識(小樽側札幌側)では,どちらも"花畔"であるべきところ,なぜか"花川"に書き直されている。
決定的な間違いとはいえないまでも,正確ではない。
この唯一残された"花畔"の標識だけはせめて,"花川"に書き換えて欲しくない。

案内標識ではないが,石狩市役所庁舎正面から花畔茨戸通(道道273号)に出る直前に,"花畔方面"が記されたこんな一時停止の看板がある。

2007.09.26



2007.05.16撮影


2007.08.28撮影


2007.09.23撮影


2007.08.28撮影


2007.09.02撮影

"花畔ふ頭"の文字が見られる案内標識

左に掲載したものは代表的な5例で,ほかにも多くの案内標識がある。
詳しくは下記を参照して欲しい。


方面,方向,あるいは道路の通称名の案内標識設置地図

ただし,主として新港地域花畔地区を中心とする。
("花畔",あるいは"花畔埠頭"ないし"花畔ふ頭"の文字が記されている可能性のある地域)


案内標識設置地図
(別画面で)

案内標識は,中央分離帯に設置されている場合もあるが,多くは進行方向に向かって左側の路端に設置されている。
それを受けてこの地図での標識設置場所を表す番号(151)は,交差点手前の各道路の左側に表示してある。
x 印は,そこには案内標識が設置されていないことを意味する。
また,"花畔"の文字のあるなしに関わらず,地図領域内の新港関連案内標識はすべて網羅しているつもりである。(新港とは直接関係のない花畔IC周りの標識などは除外)

下のリンクをクリックすると,1から51までのすべての案内標識の写真が見られる。

新港地域花畔地区 案内標識一覧

スライドショー版

2007.09.26







いずれも 2007.09.05撮影


2011.06.20撮影

花畔埠頭 (港湾のテロ対策のため関係者以外立入禁止)

始めてふらっと花畔埠頭を訪れたのは2月の始め。中の写真を撮りたいというと,頬をピリリと引きつらせた警備員によってけんもほろろに追い返されてしまった。悪印象!

釣りの趣味も持たない私は,いままで新港にはほとんど無関心で無知だった。
どうやら2004年7月以来,石狩湾新港の各埠頭は厳重な立入禁止区域になっていたらしい。
1912年のタイタニック号沈没を契機にして定められた「SOLAS条約」。本来,船舶や航海の安全性確保を主眼としていたものであるが,御多分に洩れず国際テロ阻止のお題目が注入されて,港湾施設の保安対策の強化を重点に改正された結果とのことである。

こんなの(国際埠頭制限区域)とかこんなの(水域立入制限区域)とかこんなの(テロ警戒中)とかこんなの(あなたの声で118番)とかで,埠頭の周りはガッチリと固められている。近づくものはすべからくテロリストである,といわんばかり。

しかしこんなことでほんとうにいいのか。よほど市民の目に触れられたくないものでも荷役しているのだろうか?

2007.09.05

豪華客船の振れ込みで「ふじ丸」が花畔埠頭に寄港した。前日の新聞で知って,この朝自転車で埠頭に向かった。もちろん女房ともどもである。

私たちの生活実感とはほど遠い「豪華」客船には興味はなかった。向かった最大の動機は単純に,『初めて埠頭内に入れるかもしれない』であった。そして入れた。八幡小学校の子どもたちによる石狩太鼓(歓迎セレモニー)の最中だった。

かくして手に入れることができた"花畔"が,左の3枚の写真である。

ふじ丸入港に付随して一般に開放されたのは花畔埠頭全体の1/3にも満たない領域で,それ以外には一切立入禁止。ゆえに,花畔1号線から4号線までは深いガードの中で依然として捕捉不能。
公共上屋(うわや=倉庫)もほかに花畔1号2号があるが,近寄り難くどちらも金網越し。まるでテロリストが盗撮しているかのようではなはだ不本意である。
ぜひ間近で見てみたいのがガントリークレーンの走行と, 公共上屋花畔1号内にあるという「花畔ふ頭事務所」の看板なのであるが,果たせないでいる。

「条約」ということだから批准した以上はやむを得ない面もあるかもしれない。

しかし,葵の紋章入りの印籠を振りかざすがごとく,「テロ対策」と叫べばしもじもはひれ伏すのが当たり前とでも思っているかのような昨今のおかみのありようは,逆にとてもキナ臭い。
そもそも立ち退きを強いられた農業者,漁業者のみならず,多くの市民の犠牲,協力の上に作られた新港である。本来なら,できうる限りオープンな施設であるべきだと思うのだが。

2007.10.02


2011.06.20 大きなコンテナ船が接岸。ガントリークレーンがせわしなく積み下ろし作業をしていた。


2007.09.11撮影(コープさっぽろいしかり店前)


2007.09.11撮影(遠景は花畔神社)


2007.09.16撮影


2013.09.29撮影

臨時増刊 旅の途中ですけどひと休み。

恒例・花畔神社の秋祭り

九月の第三日曜日が秋季例大祭ということで,今年は9月16日。
前日からの冷たい雨が朝まで残ったが,7時には花火が上がる。
徐々に天気も回復,青空も見えてそこそこのお祭り日和。しかし人出はイマイチでちょっと寂しい。

「津波警報局舎とISHIKARI大看板」の海岸緑地,「建設副産物の保管場」と化した柏公園など,新港のあちこちの風景を撮った後寄ってみる。

お祭りだけあって,社殿には金刀比羅宮の神紋入り暖簾が掛けられ,舞台土俵などもできている。

境内の全景,縁日のそれなりのにぎわい,くつろぐ家族連れ

そろそろ引き上げようと思っているところに,神輿を乗せたトラックが通りがかった。車上渡御というらしい。
荷台の上から,神輿をかつぐいでたちの若者が手を振る。おっとあれは,なめこ友の会の隣家の息子でないかい?初詣でもよく出会ったりするし,みこし会の中心メンバーなのか。と思ったら,花畔神社の青年部員だって。青年部も高齢化が進んでいる予感。

渡御は夜とのことらしく,かつがれた神輿を見ることはできなかった。

ところで,祭りの奉納のぼりはもっとでっかいものもあったが,いずれも寄進者の個人名が入ったものなので割愛。

2007.10.08


50回目の石狩さけまつり
神輿の練りこみを初めて見た。
地元・石狩はまなす社會はもとより,全道各地の神輿會が集まったようだ。その数数百人。
もちろん花畔みこし會の法被も。。。

2013.09.30



2007.10.05撮影

遠征編 花畔公園

ここは,苫小牧市字沼ノ端。ウトナイ団地内。
この日新千歳空港まで行った際,足を伸ばした。

漢字では同じく"花畔"であるが,読みは"かはん"であるらしい。
文字通り"花の畔(ほとり)"。いいね。
蛇行している勇払川沿いにあって,"河畔(かはん)"もかけているのかもしれない。
門碑の図柄は,いかにもウトナイ湖の近辺であることを思わせるものがある。

千歳羽田間定期便航路のほぼ直下でもあるのか,公園内一角には「航空機騒音 沼ノ端東雲 測定局」が設置されている。建物の壁は小学生の野外ギャラリー
集音センサーはこんなマイク

同じ団地内の近くには,対になるような形で"清流公園"が配置されている。

さてこちら本家でも確かに花畔公園が存在することになっている。
とはいえここが"花畔公園"であるということを示す目印はなにもない。
野鳥の巣箱がチラホラ見えるだけで,実態はよくいえば原生林,普通にいえば"薮"である。

2007.10.15





いずれも 2007.10.17撮影

茨戸川堤防上の"花畔"

第二種側帯 花畔上流築堤
シルバー人材センターリサイクルプラザの前を通って花畔北七線を進んだ先の茨戸川堤防上。
堤防上斜め向かいに,木工団地3号樋門がある。

花畔三線樋門(ひもん)
志美の田んぼを眺めながら,花畔北三線を進んだ先の茨戸川堤防上。
樋門の水路とその裏側
この下流に,志美三号二号一号樋門が続く。
防災マップによると,反対側上流方向に,花畔四線樋管があることになっているが,まだ未確認。

いずれも 2007.10.17 撮影の写真であるが,実際にはそれ以前に,堤防上のバラス道を必死にペダルを踏みながら見つけたもので,5月,あるいは7月のことである。

第二種側帯とは,堤防の安全を図るために非常用の土砂を備蓄するために設けられたもので,たしかにその部分の堤防裏側は草で覆われているが膨らんでいる(ここの土量は200立米ということか)。非常時にはこの土砂を使って水防に利用するのだという。
堤防側帯には第二種のほかに,堤防断面の拡大を図り堤防の安定性を増すために設ける第一種,植樹を行うなど環境を保全するために設ける第三種がある。

樋門とは,用水の取水,内水の排水などのために堤防を横切って設けられる水路のこと。大規模で無蓋のものを水門といい,ゲートを閉じたとき堤防の役割を果たす。樋門はより小規模で,通水断面が小さく,箱型の暗渠(地下を通る水路)の構造のものをいう。さらに小型で丸い管の場合を樋管という。
といったもっともらしい薀蓄は,実はWeb上から拾い集めた情報の受け売りなのです。最初は,"樋門"を"といもん"と読んでいたりしたほどの門外漢だったりします。年をとってからこんな知識を身につけたところで,あの世に逝ってもあまり役には立たないでしょうが。
水門といえば茨戸川関連のお馴染みに,茨戸川運河水門石狩放水路水門がある。どうやらこの2つの水門は,片方が開いていればもう片方は閉じている,という関係にあるらしい。

また石狩川右岸には樋門と関連する施設として,北生振揚水機場(および北生振用水樋門),美登位排水機場(および美登位排水機場樋門)がある。<注1>

<注1> この排水機場があるあたりの地区は,石狩市側では"美登位"と呼ばれるが,当別町側では"美登江"と呼ばれる。どちらもアイヌ語の"ピトイ"から派生した地名だろう。
排水機場はほとんど町境に設置されているが厳密には当別町域に位置する。にもかかわらずなぜか"美登位排水機場"と命名されている。

2007.10.22



2007.07.08撮影

道営住宅・花畔団地

5階建ての高層住宅群である。
いろいろ探してみたが,"花畔"の文字はあちこち分散して配置されている専用駐車場でしか見つからなかった。
外から見る限り,道住集会所にも"花畔"は見あたらない。

花畔(花川北)団地の大規模高層住宅群はこの道住のほかにもうひとつ,花川中央団地(都市再生機構 UR賃貸住宅)がある。こちらも5階建てである。

石狩市全体でも,これらよりも高い,すなわち塔屋を除いて6階建て以上の高層建築物は,11階建ての緑苑コーポ以外に知らない。
5階建てまでなら,石狩市庁舎サン・コーポラス石狩(雇用・能力開発機構 雇用促進住宅),花川病院などいくつか存在する

なにかしらの建築上の規制があるのかもしれないが,地盤の脆弱さも関わっているのだろう。
理由はともかく,とかく石狩市と比較されることの多い北広島市にはのっぽの建物がかなり多く,対照的である。
どちらの景観が好きかといえば,もちろん石狩である。
やたらな高層ビルはいらない。ついでに,モノレールも鉄道もいらない。
痩せ我慢はなんだかんだ美しい。

2007.10.29

新しくなった花川中央団地の看板(2008.03.10)


2007.09.11撮影


2007.09.11撮影


2007.09.22撮影

店名に "花畔/ばんなぐろ" がつく コンビニエンスストア

・セイコーマートばんなぐろ店
・セブンイレブン石狩花畔店
・スパー花畔店

ローソン,サンクス,ファミリーマートに花畔店がないのが,ちょっとだけ淋しくもあり嬉しくもあり。

花畔(花川北)団地の商業施設

コンビニには普段ほとんど行かないので,語るほどの薀蓄の備えもない。しかたがないので花畔団地のお店屋さんの移り変わりでお茶を濁すことにしたい。

団地中央のタウンセンターには,かつては「コープさっぽろ」の隣に「ショッパーズいしかり」があった。食品と日用雑貨中心のスーパーで,別店舗として衣料品の「ラルズ」も同居していた。魚屋,肉屋,八百屋,乾物屋などが威勢のいい対面販売を繰り広げていて,いまとなっては懐かしい。

タウンセンターをとりかこむように,団地は大きく3つのエリアに分けられ,それぞれのサブセンター内に地区会館(集会所)を中心として,医療施設,幼稚園/保育園などとともに,食品日用雑貨の小型スーパー(店舗施設)が配置されていた。

わかば会館 と 「北陽ショッピングセンター」
紅葉山会館 と 「SPARもみじ店」
白樺会館 と 「フレンドリー花川」
である。

「ショッパーズいしかり」は「ラルズ」とともに「コープさっぽろ」に呑み込まれ,個々のサブセンターでも始めに設置された店舗はいずれもすでに存在しない。

「北陽ショッピングセンター」はひところSPARに変っていたが,現在は廃墟化<注1>
「SPARもみじ店」は現在セイコーマート花川北2条店
「フレンドリー花川」もしばらく廃墟化していたが,高齢者専用マンション「憩いの園 豊寿」へと改装され,現在一部をローソン石狩花川北店が使用している。

地区会館はそれぞれとりあえず現在も健在である。
団地住民の葬祭用施設として欠くべからざるものであったが,葬祭産業の進出により,利用形態がすっかり様変わりしてしまった感がある。

2007.11.05


<注1> 廃墟だった跡地はセイコーマート花川北4条店に変身していた。5月の末に開店したという。(2008.07.25)


2007.11.08撮影

特別養護老人ホームおよびデイサービスセンター「ばんなぐろ
石狩病院の関連施設ということで,ケアハウス「いしかり」が隣接している。
自宅に近い環境の中で,ごく普通の日常生活をおくれる少人数ごとのケアが特徴だとか。

北海道の資料「老人福祉施設等名簿」によると,石狩市の施設は次の通り。(数字は定員)

■特別養護老人ホーム(介護老人福祉施設)【とくよう】
 石狩希久の園 八幡町高岡 100
 ばんなぐろ 花畔 50
 厚田みよし園 厚田区厚田 80
 はまなす あいどまり 浜益区実田 20
■介護老人保健施設【ろうけん】
 オアシス21 花川南 100
■軽費老人ホーム・ケアハウス
 りょくえん 花川東 50
 いしかり 花畔 50
■生活支援ハウス
 石狩市高齢者生活福祉センター 浜益区浜益 8
実は,「とくよう」と「ろうけん」の違いも定かでなかった自分です。
できればこうした施設のお世話にならずに全うしたいとは誰しも願うところでしょうが,先のことは分からないのが現実。
年齢条件ももう少しでクリアしちゃいます。もしかしたらお世話になるかもしれないわけで,これを機会にしっかり勉強しておかなければいけないのかも。。。

2007.11.12



2007.10.03撮影

花畔 寿ふれあい農園

石狩市社会福祉協議会が開設。65歳以上が対象とか。
社会福祉協議会は,石狩市総合保険福祉センター(りんくる)に入居している。

11月9日に通りがかったときには,農園の看板は撤去されていた。冬篭りの準備なのだろう。

それにしても近頃,いたるところでいわゆる"市民農園"なるものが目に付く。それだけ遊休農地の供給があり,また一方で"市民"の側からの需要もあるということなのだろう。
蔬菜園芸にしてもガーデニングにしても,風潮に踊らされることのないようにしたいものだ。

2007.11.19

今年もすでに佳境のようである(2008.05.29)

樽川の姉妹農園(2012.04.02)

看板が若干新しくなっていた(2013.08.26)
そういえば,姉妹農園の看板も同様に更新されていた(2013.09.30)


2007.05.05撮影


2007.06.27撮影


2007.06.27撮影


2007.06.27撮影

"花畔"の住所表記が見られる案内標識がついた信号機
(大きな地図は下をクリック)


信号機設置地図
(別画面で)

"花畔"の住所表記が見られる信号機が設置されているのは,石狩手稲通のみであり,かつ花畔村と樽川村との村境となっていた斜め防風林以北である。
斜め防風林を境にG以南は"樽川"表記となる。

AからGにおいて,交差する道路と信号機の住所表記を示す。

A 花畔3号通 花畔1-1, 花畔3-1
B 花畔茨戸通 花畔2-1, 石狩市役所前
C 花畔環状通 花畔2-1, 花川北6-1, 石狩市役所入口
D 北陽通 花畔, 花川北4-1
E 中央通 花畔, 花川北3-1
F 花川通 花畔, 花川北1-1, 花川南1-1
G 花川南3条通
および樽川7番通
花川南2-1, 花川南3-1,
樽川, 樽川3-1
  ついでに花畔茨戸通沿い
H 花畔1号通 花川北6-2, 花川北6-3, 花川北7-1
  • a,b,c は押ボタン式信号機なので住所表記の標識はない。
    a については,花畔環状通が花畔3-14-1の境界となっている。
  • d も押ボタン式ながら住所表記ならぬ標識"石狩市役所前"が設置されている。(次項とも関連)
  • 奇異なのは"石狩市役所前"と"石狩市役所入口"である。通常,信号機の案内標識は住所表記であるのに,ここだけ掟破りなのはなぜだろうか?市役所だからといって特別扱いされる理由などないはずだが。
    入口表記の信号機標識は実はほかにもある。八幡町から当別方面へ向かう道道81号を進むと,最初に出会う信号機に"石狩市高岡入口"とある。しかしこの場合は住所の延長でもあり違和感はさほどない。
  • 条丁目のない"樽川"のみ表記された信号機は,G および,石狩手稲通と西5丁目・樽川通<注1>(道道865号・樽川篠路線)との交差点の2ヶ所だけである。花畔地区より区画整理が早く進みそうな雰囲気なので,早晩ひとつもなくなるに違いない。

<注1> この項目では蛇足の蛇足に近いことだが,"樽川通"の名のつく道路が札幌市には手稲区にも存在する。手稲区役所前を始点として新川南通へと続く斜め通りである。もちろん樽川表記の信号機はありえない。
かつては,新川河口オタネ浜界隈の漁民や樽川の農民たちが軽川駅(手稲駅)へと向かう貴重な生活道路だったのだろう。そのことから樽川通と呼ばれるようになったものと思われる。
また手稲土功川(土功排水),前田川(樽川添大排水)にも沿っていて,旧山口村と旧下手稲村との村境でもあったようだ。

2007.11.26



2007.11.26撮影

軽石軌道 花畔停車場

もちろん現存はしない。また,説明板に『軽川軌道』とあるが,『軽石軌道』が正しいものと思われる。
「ガルイシキドウ」と読むべきか,「ケイセキキドウ」と読むべきか,さだかではない。どうやらそれらより「バテツ」として親しまれていた様子があちこちにうかがえる。
石狩に残る馬鉄 (はまなす橋の高欄)
札幌市の手稲コミュニティセンターの敷地の一角に,軽川停車場の標識と馬鉄で使用されていた客車が陳列してある。
客車は復元されたものかもしれないが,両側に4,5人掛けの椅子があり,真ん中天井から3ヶの吊り輪がぶら下がっていた。

花畔停車場の標識看板だけでもよく残っていたものだ。貴重な歴史遺産が石狩市内に保管されていなかったというのは惜しまれる。しかも,いまにも車輪に轢かれそうなこんな置かれ方もなんとなく情けない。
軽川(手稲)に幌内鉄道の簡易停車場ができたのは1880年(明治13年)。
軽川道と呼ばれた軽川花畔間の道路が開削されたのは1889年(明治22年)のこと。1886年(明治19年)から2年がかりで軽川大排水が掘削された後も,鉄道以北はたいへんな低湿地で,しばしば歩くこともままならなかったという。だから樽川,花畔,石狩の住民は当時から鉄路の延長を願っていたであろうことは想像に難くない。
鉄路には違いないが,軽川花畔間に登場したのは1922年(大正11年)に開業した馬鉄だったというわけである。営業は順風満帆とはならず,さらに交通事情の変化もあって,当初計画していた石狩までの延長もできぬまま,1935年(昭和10年)に廃業することになる。

軽川の低湿地といえば,戦後まもなくの頃,親たちが軽川まで出かけて掘ってきた泥炭を乾かし,燃料としていたのが幼い頃の記憶の中にある。

2007.12.03



2007.11.27撮影

花畔人道橋

今回もまた札幌市手稲区である。前回との大きな違いは,しっかりと現役であること。手稲駅札幌寄りにある人用JR跨線橋である。現在西友のあるあたりに,馬鉄の軽川停車場があったようである。

実は手稲駅小樽寄りにも人および自転車用JR跨線橋があり,こちらは樽川人道橋と名づけられている。

手稲駅の両側になにゆえ石狩の地名のつく人道跨線橋が設置されているのかが不思議で,手稲区市民部地域振興課まちづくり調整担当にメールで問い合わせたが,いまだになしのつぶてである。おそらく今となっては明確なことは分からないのだろう。
跨線橋ができる前は当然踏切があったのだろうが,その踏切を渡る道路が,ひとつが花畔へと向かう石狩手稲通であり,もうひとつが樽川であったことによると考えてもよさそうな気がする(無難な線だ)。

ところで,下手稲通を星置方面へ向かって進み樽川通との交差点を過ぎるとすぐ,2つの橋を渡る。最初のひとつが樽川添大排水(前田川)に架かる樽川である(ついでにもうひとつは,手稲土功川に架かるわらべ橋)。
樽川通というバス停もあるし,このあたり手稲なのになぜかやたらと"樽川"が密集している。

【参照】 手稲土功川の橋 (2008.10.21)

2007.12.10


2007.12.08撮影


2007.11.09撮影

店名に"花畔"がつくガソリンスタンド

石狩市農協 ホクレン花畔給油所 (JAいしかり花畔給油所)
以前はもっと花畔市街地寄りにあった<注1>が,現在地(北13線)に移転してセルフ方式になったらしい。私はセルフ給油が苦手だ。
ENEOS 花畔SS
花畔市街地の真ん中に位置する<注1>このスタンドは,小さいが相当年季が入っている。ENEOSカードを使っているので,たまにここでも給油する。
ほかに
ENEOS Dr.Drive 花畔SS
も存在したが,こちらは廃業した模様。

ちなみに,JAいしかり花畔給油所における
6/27 の価格表示
12/19 の価格表示を示す(近頃の最高値。その後僅かに下がり気味)。
暫定税率失効直後の価格表示 そもそも本則税率ですら法外に高すぎると思うのだが。(この行 2008.04.01)
庶民の声を無視した暫定税率強行再可決後の5/2の価格表示 前日(5/1)の朝見たときはまだこれより30円安かったのだが。(この行 2008.05.03)

それにしてもここんとこの灯油,ガソリンの高騰には開いた口が塞がらない。
そもそも石油だの穀物だの生活必需品を投機の対象とするファンドの跳梁跋扈は許しがたい。しかしそうした状況にただ手をこまねいているばかりの政府の無為無策には,呆れるばかりである。
室温設定を下げろだの,厚着をすれだの,誰でもすでにやっていることを,おためごかしに説教する段階ではなかろうに。
具体的に価格を下げる算段を考えなさいっ!

こんなところで,ついつい怒ってしまった。

2007.12.17


<注1> おととい,ENEOS 花畔SS で給油した際伺ったところによると,15年ほど前までホクレン花畔給油所がこの位置で営業していたとのこと。ホクレン花畔給油所が現在地に移転した後,このスタンドの営業を横井商店が受け継いだということらしい。ひとつ謎が解けた。(2008.02.08)


2007.06.25撮影


2007.10.21撮影


2007.09.22撮影

● 電柱広告の"花畔" ● 道道標識の"花畔" ● ついでに,道道標識の"花川","樽川" ● 街中で見かけた"花畔"
どちらかというと,私企業やお店といったこじんまりとした"花畔"たちである。外へ向けて看板を掲げている以上は,不特定多数の目に留まることを意図しているのだろうと,勝手に解釈してここに掲示することにする。
なお,単純に発見した順に並べてあるだけで,他意はない。


2007.05.05撮影


2007.05.05撮影


2007.05.05撮影

花畔大橋 と,茨戸川に架かる仲間たち  参照 : 「茨戸川の橋+

花畔大橋の日の出
花畔大橋

国道231&337号 (花畔・生振間)
1990年 (平成2年)供用開始

標識橋名板説明板高欄下から見上げるその2(早朝),生振側から茨戸川氷上から

★片側3車線,大型トラックが爆走するこの道を,中央分離帯まで目指すのは年寄りには決死の業。

茨戸大橋

国道231号 (生振・茨戸間)
1990年 (平成2年)供用開始

標識橋名板センターゾーンモニュメント下から見上げる,これも下から

生振大橋

国道337号 (生振・あいの里間)
1996年 (平成8年)供用開始

標識橋名板札幌(篠路町拓北)側から茨戸川氷上から
★ここでうかうかしていると,橋の照明の上で憩っている海鳥たちの糞の直撃を食らうこともある。
★かつて(茨戸川がまだ石狩川だった時代),この橋より下流のすぐ近くに,八線渡船場があった。(2008.04.18)

■ そのほか

観音橋 1936年(昭和11年)竣工<注1>の古色蒼然たる橋ながら,道道508号 矢臼場札幌線の一部としてバリバリの現役。周囲の護岸には単床ブロックを見ることができる。
パラト中島橋 観音橋を渡って生振側に入るとすぐにあり,パークゴルフ場などがある中州へと通じる。
(遠景 : 観音橋とパラト中島橋 2009.03.06)
運河橋 茨戸川と石狩川を繋ぐ茨戸川運河<注2>の出口,運河水門とならんで架かっている。この橋も,道道508号 矢臼場札幌線の一部。
現在の橋は1980年(昭和55年)竣工のものだが,先代は北海道初の全溶接橋として1936年(昭和11年)に竣工した。
山口橋 茨戸川は三日月湖形状の大小2ヶの旧石狩川からなり,小さい方の三日月湖(上部湖盆)と大きい方の三日月湖(中部/下部湖盆)とは狭い水路で結ばれている。この水路にかかるのが山口橋である。市域でいえば札幌市(北区篠路町拓北)。(2008.06.05)
冬の山口橋。(2009.01.26)
水路の山口橋の下手に,対のようにもうひとつの橋がある。が,今は通行不能である。(2008.06.06)
この橋,実は時には通行可能なこともある。(2009.01.26)

【以下の4つの橋はすべて,石狩放水路に設置されている】
茜橋 国道231号に架かる。
(遠景 2009.03.01)
第二放水路橋 道道225号 小樽石狩線に架かる。
放水路水門管理橋 放水路水門を管理するための橋。
車は通行できない
望洋橋 水門よりさらに海側にあり,東・花畔ふ頭線に架かる。
車道橋と人道橋とが分かれている
(遠景 2009.03.04)

<注1> 石狩市のHPの石狩市年表によると,観音橋は昭和10年着工,11年竣工とある。ほかの資料ではそれより1年早い表記もあるので,あらためて観音橋の橋名板を確認しにでかけてきた。雪に埋もれてはいたが,それによると竣工は1935年(昭和10年)が正しいようだ(撮りなおし)。
 1931年(昭和6年)生振捷水路によって石狩川のショートカットが完成した。湖沼化した旧石狩川を埋立てて狭くした水路に架けられた(長さ7m)のが観音橋である(初夏の風景)。これにより生振と茨戸は陸路で結ばれ,茨戸渡船場は40数年の任務を終えた。
 これらの事業の功を讃えて,近くの生振農協跡地に記念碑が建てられている。(2008.02.09)
 なお,名前は馬頭観世音菩薩(生振観音)に由来するといわれている。(2008.04.11)
 上記の橋名の由来はまったくの早とちりであったようだ。馬頭観世音菩薩は観音橋のすぐ近くにあるのだが,生振観音として親しまれていたのは生振八線の勢至観音であった。渡橋式の一ヶ月の昭和10年11月から,茨戸-生振観音間のバスの運行が開始された。(2008.04.18)

<注2> この『旅』では茨戸川と石狩川を繋ぐ運河を"茨戸川運河"と呼んでいる。石狩川開発建設部による「排水機場設置図」ではそのように表記されていて分かりやすいからだ。しかし,同じ石狩川開発建設部の文書でも,ほかでは"志美運河"と記述されていて必ずしも統一されていない。ここでの全溶接橋の説明版でも"シビ運河(石狩運河)"とされているし,"生振運河"という呼称もあったりしてとても紛らわしい。(2008.03.20)
 通称としては"志美運河"の呼称が多く用いられていることは確かであるが,運河であっても河川法上の名称は"茨戸川"であるとのことである。
 この運河は1934年(昭和9年)に開削された。(2008.04.11)
花畔インターチェンジ

花畔大橋につながるように隣接しているインターチェンジ。

この界隈を随分うろついてみたが,"花畔インターチェンジ"の名はいまだにどこにも見つけられない。

右の案内図で左右に走るのが国道337号。上から右に抜けるのが国道231号。右に行くとすぐ花畔大橋につながり,生振インターチェンジへと向かう。花畔,生振両インターチェンジ間は,国道231号と337号との重複区間である。

案内図下方の花畔側から上へ進む方向の案内標識,および,右方の花畔大橋・生振側から左へ進む方向の案内標識を示す。

それにしてもインターチェンジというのは車には便利かもしれないが,歩行者(自転車にも)には随分と難儀を強いるものではある。
インターチェンジとは,近頃の普通の感覚では高速道路の出入口を差すものだと思っていた。しかし,花畔にしろ生振にしろ,これらもインターチェンジの仲間なのだとしたら,単純に広い意味での立体交差路をインターチェンジといってもいいのかもしれない。さほど悩むほどのことではないが,謎である。

2007.12.31

2007年大晦日。一気にケリをつけてしまった。

『旅』の終わりの記は,年明け,屠蘇気分が抜けてから書くことにしよう。


2008.05.14撮影

2008年に見つけた"花畔" その1

花畔こ道橋

上記花畔インターチェンジの立体交差にかかる橋である。
線路を跨ぐのが跨線橋なら,道路を跨ぐのは跨道橋ということか。あまり馴染みはないが。
この橋は基本的に車両専用橋。したがって歩道はない。大型貨物車がビュンビュン突っ走る。
橋名板を撮りに行くには,危険を顧みない勇気?が必要だった。
見下ろすと,普通に車で走っているときにはほとんど視界に入らないがある。

2008.05.15



2008年に見つけた"花畔" その2

花川通の案内標識

南花畔通の起点が丁字路となって突き当たる花川通の両方向に設置されている。
石狩市と札幌市との市界は発寒川だが,"花川通"は発寒川に架かる花川橋を越えて札幌市域に入り,屯田3番通(東15丁目・屯田通)との交差点が起点となる。
その先は名前が変わって追分通である。

2008.05.15


いずれも 2008.03.29撮影


2008.05.28撮影

2009年に見つけた"花畔" その1

石狩市庁舎前「飯尾円什之像」背面説明版

"石狩花畔土地改良区"
"花畔市街土地区画整理組合事業"
の文字が見える。

大正時代,若き日の僧侶飯尾円什は砂地造田の必要性を熱く説いてまわり,また自ら電力揚水により造田の端緒を切り拓いた。1947年(昭和22年)に行われた第1回統一地方選挙に推されて戦後初代の町長に就任。良質米生産地としての石狩の名を高める。
飯尾の4選を阻止した2代目は,石狩湾新港や宅地開発などを推進,花畔の水田は消えていく。6選を阻まれ退任後,収賄容疑で逮捕されることになる。
多選批判を掲げて当選した3代目は,皮肉にも就任後1年足らずで急逝。
その路線を引き継いだ4代目は,4期目在職中に収賄容疑で逮捕され辞職。
7人が立候補するという大混戦を制した5代目(任期中町長から市長へ)も,2期目の途中で体調不良により退職を申出る。
そして戦後6代目,3期目となる現市長は・・・

2009.05.02



2009.05.21撮影

2009年に見つけた"花畔" その2

花畔団地の案内標識

"花畔団地"が方向表示されている標識はおそらくこれだけではないだろうか。いままで気がつかなかったのは迂闊だった。
花川南3線(石狩市と札幌市との境界となっている道路)東方向,花川南3丁目の手前に設置されている。そういえばこっちの方は調査?が不十分だったような気がする。

なおついでに,ここまで未掲載の"花畔"の文字が見える案内標識。

南花畔通

花畔環状通

2009.05.02



2009年に見つけた"花畔" その3

緑苑台にある上花畔1/2/3号公園

紅葉山砂丘から東には発寒川をはさんで創成川にいたるまで,かつて広大な前田農場が存在した。発寒川と紅葉山にはさまれた石狩市域は現在は花川東,あるいは緑苑台と呼ばれるが,旧字名は"上花畔"であった。

これら街区公園に分類される公園にはそれぞれ
木こり公園 (上花畔1号公園)
バイキング公園 (上花畔2号公園)
アンデルセン公園 (上花畔3号公園)
という,馴染みやすい通称がつけられている。

緑苑台地区におけるより大きな規模の近隣公園としては,紅葉山通に面して紅葉山南公園が設置されている。

2009.05.02


いずれも 2009.05.02撮影


2009.09.01 撮影

その後の"花畔"

花畔中央町内会の防災資機材保管庫

花畔中央会館と同じ建物の一部に設置されている。

2012.04.03



2011.09.26 撮影

花畔本通

旧花畔村北11線道路で,現在は花畔市街から新港方向へと向かう幹線道路。
かつては国道337号で,国道が切り替わり市道に編入されたときに道路名が"花畔本通"とされたらしい。
現在その一部は都市計画道路の"花畔3号通"と重複している。

2011年,拡幅工事に伴う迂回のお願い標識の中で初めて"花畔本通"の名を知ることができた。この標識はすでに撤去されている。

2012.04.03

2012年,花畔本通道路整備工事は,花畔市街地側へ場所を移動して継続されていた。


2012.04.01 撮影

花畔団地特定製造所

北海道ガス(北ガス)によるLPガス発生設備の看板
北ガスでは,花川地区への供給ガスをLPG(液化石油ガス)からLNG(液化天然ガス)に転換する作業を進めており,2012年5月完了予定という。この設備もその後は撤去されることになるのだろう。

この設備に隣接する北ガスグループの石狩サービスは,従来から地域集中暖房地区に熱を供給する事業を行ってきたがそれから撤退。
熱供給施設ののっぽ煙突の解体作業が続けられている。

2012.04.03

石狩サービスの社屋とともにこの設備も撤去され更地になった。この看板はもはや存在しない。(2013.09.30)


2012.12.21 撮影

NTT東日本 花畔電話交換所

"ビル"というほどの建物ではないが,NTTではビルと呼び,電話の交換機などが設置されている。電電公社時代の"電報電話局"。現在は無人化されているのだろう。
花畔電話交換所のカバーエリアは,おおよそ,花畔,生振,新港中央,新港南地区ということらしい。
ちなみに,花川北,南,東,緑苑台,樽川,新港西地区などをカバーするのは石狩ビル。ここは"ビル"といわれれば確かにビルで,石狩電報電話局(1980年移転開局)時代には多くの局員が従業していた。窓口業務も行われていて,何度か申請,支払いなどで赴いたことがある。いまは,募集してもテナントが入る様子もなく,侘しいたたずまい
石狩市内の電話交換所には,ほかに,親船,高岡,望来,厚田,浜益,雄冬がある。

かつては交換手により手動で行われていた電話交換業務は,1920年代から自動化が進み,ステップバイステップ交換機,クロスバー交換機,電子交換機へと小型化,高速化がはかられた。そして現在ではディジタル交換機となって交換所から人の姿が消えた。

2012.12.22



2012.12.21 撮影

花畔麦生産組合 麦乾燥調製施設

前項目の花畔電話交換所もそうだが,ようやくいまになって知ることになる"花畔"もあるからこのページも気が抜けない。まだまだどこかに潜んでいる"花畔"もあるのだろう。
"昭和55年度転作促進対策特別事業"とあるから,石狩電報電話局が樽川に開局した年と同じであり,30年以上ここにあり続けたことになるが,まったく気づかなかった。

1970年代からの国の減反政策により,小麦などへの転作が補助金を伴って強引に奨励されたということの生き証人?でもあるだろう。
現在は石狩川右岸・若生地区にJAいしかりの"米麦乾燥調製施設"が大規模に整備されているので,花畔の麦乾燥調製施設がその名のとおり機能しているのかどうかは定かではない。

石狩産小麦の品種としては,「春よ恋」(主にパン,ラーメン,ピザ用),「きたほなみ」(主にうどん,菓子用)などがある。

2012.12.22



2013.08.26 撮影

NTTドコモ 石狩花畔基地局

建屋全景アンテナ
花畔寿ふれあい農園に隣接して立っている。(2007年当時)

ドコモの基地局があるのなら,auやSoftbankなど他の事業者の花畔基地局もあるのかもしれないが,未確認。

2013.08.27